○星亮一『会津戦争全史』(講談社選書メチエ) 講談社 2005.10
小学生の頃、明治維新は、ほとんど無血革命のように思っていた(極端に単純化された歴史では、そのように習った)。その後、歴史小説を読むようになって、戊辰戦争という内戦があったことを、だんだんに理解した。しかしまあ、これほど酷い戦争だったとは。
会津では、たくさんの農民や婦女、少年兵が犠牲になった。子供を殺して自害した母親も多かった。爆撃を受け、肉片が飛び散る中、籠城して戦った女性もいた。戦後も、埋葬が禁じられたため、屍骸は野外に放置された。命は助かっても、家を焼かれ、財産は強奪された者が多かった。さらに、生き残った会津藩士は、極寒の下北半島に強制移住させられた。この、徹底して敗者を鞭打つような戦後処理が、戦後130年を経て、今日なお、会津の人々の心に恨みを残しているのだという。
それにしても、明治の日本人は、すさまじい。まだ、近代人の尺度で測ってはいけないのだろう。美少年の首級を皿に飾って酒盛りをしたり、敵兵の肝を煮て食ったりする話が、いくらでも出てくる(この本、食前食後に読むことはおすすめしない)。薩摩兵、土佐兵だけではなく、会津兵も同じことをしている。これを読むと、太平洋戦争中に日本軍が行った”蛮行”というのも、特に驚愕すべきものではなくて、文化的に許容範囲(ちょっとした先祖がえり)だったのだろうと思われてくる。
目を覆うような悲惨な話が多い中で、会津藩家老・山川大蔵の姉妹たちが、自害の道を選ばず、武器を取って果敢に戦い、ついに生き延びたという話には、少しホッとするものがある。
彼女たちは、移住先の苦難にも耐え、長姉は東京女子師範学校の舎監に、二姉は大正天皇の女官に、そして妹の咲子(捨松)は、アメリカ留学後、薩摩の大山巌の妻になった(鹿鳴館の華とうたわれたらしい!)。また、大蔵(浩)の弟で、白虎隊の生き残りでもある健次郎は、米国で物理学を学び、のちに東大総長となった。しぶとく生きてこそ、また新たな運命も開ける、という見本みたいなエピソードである。
小学生の頃、明治維新は、ほとんど無血革命のように思っていた(極端に単純化された歴史では、そのように習った)。その後、歴史小説を読むようになって、戊辰戦争という内戦があったことを、だんだんに理解した。しかしまあ、これほど酷い戦争だったとは。
会津では、たくさんの農民や婦女、少年兵が犠牲になった。子供を殺して自害した母親も多かった。爆撃を受け、肉片が飛び散る中、籠城して戦った女性もいた。戦後も、埋葬が禁じられたため、屍骸は野外に放置された。命は助かっても、家を焼かれ、財産は強奪された者が多かった。さらに、生き残った会津藩士は、極寒の下北半島に強制移住させられた。この、徹底して敗者を鞭打つような戦後処理が、戦後130年を経て、今日なお、会津の人々の心に恨みを残しているのだという。
それにしても、明治の日本人は、すさまじい。まだ、近代人の尺度で測ってはいけないのだろう。美少年の首級を皿に飾って酒盛りをしたり、敵兵の肝を煮て食ったりする話が、いくらでも出てくる(この本、食前食後に読むことはおすすめしない)。薩摩兵、土佐兵だけではなく、会津兵も同じことをしている。これを読むと、太平洋戦争中に日本軍が行った”蛮行”というのも、特に驚愕すべきものではなくて、文化的に許容範囲(ちょっとした先祖がえり)だったのだろうと思われてくる。
目を覆うような悲惨な話が多い中で、会津藩家老・山川大蔵の姉妹たちが、自害の道を選ばず、武器を取って果敢に戦い、ついに生き延びたという話には、少しホッとするものがある。
彼女たちは、移住先の苦難にも耐え、長姉は東京女子師範学校の舎監に、二姉は大正天皇の女官に、そして妹の咲子(捨松)は、アメリカ留学後、薩摩の大山巌の妻になった(鹿鳴館の華とうたわれたらしい!)。また、大蔵(浩)の弟で、白虎隊の生き残りでもある健次郎は、米国で物理学を学び、のちに東大総長となった。しぶとく生きてこそ、また新たな運命も開ける、という見本みたいなエピソードである。