○ジャ・ジャンクー(賈樟柯)監督 映画『四川のうた』
「セミドキュメンタリー」というのだそうだ。舞台は四川省成都。2007年に実際に閉鎖(民営化、移転)された国営工場「420」の労働者100人にインタビューを重ね、計8人の独白を映像化したもの。うち4人は実際の労働者であり、4人は俳優を使って「精緻に構築されたフィクション」である。8人は、年齢も性別も「420工場」での立場もさまざま。けれども、同じ時代を、同じ(非常に狭い)コミュニティで生きてきた同胞たちである。
「彼ら」がインタビューに応ずる場所は、バスの中だったり、美容室の椅子だったり、ビルの屋上だったりする。インタビューの間は、基本的にBGMなし。時折、通り過ぎる車の警笛が、ある時代の中国の空気を思い起こさせて、懐かしい(分かるかしら)。そして、インタビューとインタビューの間には、時代のターニングポイントを象徴するような流行歌が流れ、力強いが単調な工場労働の風景、再開発に向けて取り壊されていく工場の風景などが挟まれる。
初期のジャ・ジャンクーに比べれば、抒情的で分かりやすいと思うが、「おもしろい」作品ではない。中国語の独白を聞いているだけ(半分は四川なまり)で、実のところ、少し眠くなりかけていた。そのとき、インタビューの最後に、チャオ・タオ(趙涛)演ずる若い女性が登場する。富裕階級のためのバイヤーという、スマートな仕事にふさわしい、現代的な容姿の彼女は、真っ黒になって、男か女かも分からないような姿で、工場で働いていた母親の思い出を語り、私はお金を貯めて、工場の跡地に立つ高級マンション「21城市」を母親のために買ってあげる、と言い切る。そのためには、たくさんお金を稼がなければならない、でも必ずやってみせる、「私は労働者の娘だから」と強く宣言する。
この「我是工人的女儿」というひとことが、眠気を醒ますように、私の胸の中に落ちてきた。工人(労働者)の国家、という共産主義の理想は、もはや砕け散って跡形もない――だろう。それでも、まだ、あの国の若い世代には、自分を労働者の娘・息子と思う気持ちがいくぶんか残っているのだな、と気づいた。日本人の10代や20代は、いま、何割くらいが、このような実感を持っているんだろう。
■公式サイト
http://www.bitters.co.jp/shisen/
「セミドキュメンタリー」というのだそうだ。舞台は四川省成都。2007年に実際に閉鎖(民営化、移転)された国営工場「420」の労働者100人にインタビューを重ね、計8人の独白を映像化したもの。うち4人は実際の労働者であり、4人は俳優を使って「精緻に構築されたフィクション」である。8人は、年齢も性別も「420工場」での立場もさまざま。けれども、同じ時代を、同じ(非常に狭い)コミュニティで生きてきた同胞たちである。
「彼ら」がインタビューに応ずる場所は、バスの中だったり、美容室の椅子だったり、ビルの屋上だったりする。インタビューの間は、基本的にBGMなし。時折、通り過ぎる車の警笛が、ある時代の中国の空気を思い起こさせて、懐かしい(分かるかしら)。そして、インタビューとインタビューの間には、時代のターニングポイントを象徴するような流行歌が流れ、力強いが単調な工場労働の風景、再開発に向けて取り壊されていく工場の風景などが挟まれる。
初期のジャ・ジャンクーに比べれば、抒情的で分かりやすいと思うが、「おもしろい」作品ではない。中国語の独白を聞いているだけ(半分は四川なまり)で、実のところ、少し眠くなりかけていた。そのとき、インタビューの最後に、チャオ・タオ(趙涛)演ずる若い女性が登場する。富裕階級のためのバイヤーという、スマートな仕事にふさわしい、現代的な容姿の彼女は、真っ黒になって、男か女かも分からないような姿で、工場で働いていた母親の思い出を語り、私はお金を貯めて、工場の跡地に立つ高級マンション「21城市」を母親のために買ってあげる、と言い切る。そのためには、たくさんお金を稼がなければならない、でも必ずやってみせる、「私は労働者の娘だから」と強く宣言する。
この「我是工人的女儿」というひとことが、眠気を醒ますように、私の胸の中に落ちてきた。工人(労働者)の国家、という共産主義の理想は、もはや砕け散って跡形もない――だろう。それでも、まだ、あの国の若い世代には、自分を労働者の娘・息子と思う気持ちがいくぶんか残っているのだな、と気づいた。日本人の10代や20代は、いま、何割くらいが、このような実感を持っているんだろう。
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