■御寺(みてら)泉涌寺
秘仏の旅も最終日(5/6)。行き先に悩んだが、結局、京都に出て、駅から近い泉涌寺に向かうことにした。山門をくぐるとすぐ、左手に「楊貴妃観音堂」がある。寛喜2年(1230)に将来された像で、泉涌寺のホームページには「像容の美しさから、玄宗皇帝が亡き楊貴妃の冥福を祈って造顕された像との伝承を生み、楊貴妃観音と呼ばれて来た」とある。確かに、華やかに塗り分けられた透かし彫りの宝冠と言い、伏し目がちのまなざしを強調するアイラインと言い、美しいのだが、ギリシャ彫刻みたいなプロポーション重視の現代人の感覚からすると、ピンと来ないかもしれない。私も、ずいぶんむかしに拝観して以来、ずっと再訪していなかった。
お堂の隅を見ると、この楊貴妃観音を全面的にフィーチャリングしたチラシが置いてあって「聖地寧波」の大きな文字がかぶせてある。あ、奈良博の特別展だ、とすぐに気づいた。まだ刷り上って間もないのか、お堂の受付の方も、同じチラシにしみじみと見入っている。「奈良博にお出になるんですか」と声をおかけしてみたら「そうです。全期間ではないですけどね」とのこと。「(出陳は)初めてですか?」とお聞きしたら、「いや、以前、東京のデパートでやった展示会に出たことがありますね。ええと、美智子さんのご成婚のとき」って、さすがに私もそれは知らない…。堂内では、各種のお札(お守り)を授受いただけるが、楊貴妃に「縁結び」はともかく「良縁」は期待できない気がする、と思いながら、可笑しいので、ひとついただいていく(200円)。
観音堂の隣りが宝物館の心照殿。第1展示室「泉涌寺の仏画と仏具」は、中国色が濃厚で楽しい。江戸時代の『帝釈天像』は、どう見ても冕冠(べんかん)姿の皇帝像だし、同じく『鬼子母神像』も中国の貴婦人風。中央の『仁王像』は、色とりどりの宝玉をつないだ瓔珞を振り立てて見えを切っている。こんな華やかな仁王は初めてだ。これは三尊形式なのか、たまたま並べた三幅なのか、はっきりしないが面白かった。第2室「女帝・女院の文華」では、なぜかそこにあった『朝鮮通信使歓待図屏風』に惹かれた。狩野益信(1625-1694)筆。右隻に市中の行列、左隻に謁見の図が描かれていて、結構リアルな感じがする。
仏殿を通り抜け、本堂も拝観。ここは、江戸時代から歴代天皇・皇后の御葬儀を執り行い、今日も皇室との関係が深い寺院である。それにしては、どこを見ても中国色が強いことに驚くとともに、明治の神仏分離令が出たときは、驚天動地だったろうなあ、と感慨に誘われた。
■銀閣寺[東山慈照寺]:特別公開「東山文化の原点 国宝東求堂」
帰りの新幹線まで、まだ時間があったので、急ぎ、銀閣寺へ。この日までの特別公開「東求堂(とうぐどう)」が目的である。拝観はガイドツアー形式のため、次の出発まで少し待つ。私の組は、こじんまりと6人で出発。その前は18人だったというから、これにも運不運がある。本堂では、与謝蕪村や池大雅の襖絵を間近に拝観。庭の銀沙灘・向月台という砂盛りが江戸時代に始まるものであること、月1回作り直しをしていることなど、興味深いお話を聞く。
渡り廊下を通って、創建当時の遺構とされる東求堂に移る。中を覗くと、思わぬところ(本堂に背を向けた壁のくぼみ ※矢印のあたり)に法体姿の足利義政公像が安置されている。等身大と思われる大きなお像で、いい大人がかくれんぼしているみたいだった。
奥に進むと四畳半の書院「同仁斎」。明かり障子の下の付書院には、「国宝」の札のついた『君台観左右帳記』の太い巻子と、墨、筆、硯、水瓶などの「唐物」が、決めごとどおりに並べられている。女性ガイドさんのお話では、この東求堂公開は毎年行われているが、今年は観音堂が修復中ということもあって、和尚さんの発案で、特別に唐物飾りを再現してみたのだそうだ。嬉しい。昨年、正木美術館の特別展(東京美術倶楽部)で、ここ東求堂に唐物飾りを再現するプロジェクトをビデオで見たときもうっとりしたが、自分の目で見ることができて、感激もひとしお。ただし、あとで確かめたら『君台観左右帳記』はレプリカです、とのこと。さらに渡り廊下でつながれた弄清亭(ろうせいてい)では、奥田元宋(1912-2003)画伯の襖絵を拝観。寺院って、古いものに新しいものを取りあわせていくことに躊躇がなくて、いいなあ。きびきびしたガイドさんの説明が、とても気持ちよかった。
バスで京都駅に戻り、予定どおりの新幹線に乗車。格別に実り多かった連休の旅もこれにて終了である。さて、次回は…?
秘仏の旅も最終日(5/6)。行き先に悩んだが、結局、京都に出て、駅から近い泉涌寺に向かうことにした。山門をくぐるとすぐ、左手に「楊貴妃観音堂」がある。寛喜2年(1230)に将来された像で、泉涌寺のホームページには「像容の美しさから、玄宗皇帝が亡き楊貴妃の冥福を祈って造顕された像との伝承を生み、楊貴妃観音と呼ばれて来た」とある。確かに、華やかに塗り分けられた透かし彫りの宝冠と言い、伏し目がちのまなざしを強調するアイラインと言い、美しいのだが、ギリシャ彫刻みたいなプロポーション重視の現代人の感覚からすると、ピンと来ないかもしれない。私も、ずいぶんむかしに拝観して以来、ずっと再訪していなかった。
お堂の隅を見ると、この楊貴妃観音を全面的にフィーチャリングしたチラシが置いてあって「聖地寧波」の大きな文字がかぶせてある。あ、奈良博の特別展だ、とすぐに気づいた。まだ刷り上って間もないのか、お堂の受付の方も、同じチラシにしみじみと見入っている。「奈良博にお出になるんですか」と声をおかけしてみたら「そうです。全期間ではないですけどね」とのこと。「(出陳は)初めてですか?」とお聞きしたら、「いや、以前、東京のデパートでやった展示会に出たことがありますね。ええと、美智子さんのご成婚のとき」って、さすがに私もそれは知らない…。堂内では、各種のお札(お守り)を授受いただけるが、楊貴妃に「縁結び」はともかく「良縁」は期待できない気がする、と思いながら、可笑しいので、ひとついただいていく(200円)。
観音堂の隣りが宝物館の心照殿。第1展示室「泉涌寺の仏画と仏具」は、中国色が濃厚で楽しい。江戸時代の『帝釈天像』は、どう見ても冕冠(べんかん)姿の皇帝像だし、同じく『鬼子母神像』も中国の貴婦人風。中央の『仁王像』は、色とりどりの宝玉をつないだ瓔珞を振り立てて見えを切っている。こんな華やかな仁王は初めてだ。これは三尊形式なのか、たまたま並べた三幅なのか、はっきりしないが面白かった。第2室「女帝・女院の文華」では、なぜかそこにあった『朝鮮通信使歓待図屏風』に惹かれた。狩野益信(1625-1694)筆。右隻に市中の行列、左隻に謁見の図が描かれていて、結構リアルな感じがする。
仏殿を通り抜け、本堂も拝観。ここは、江戸時代から歴代天皇・皇后の御葬儀を執り行い、今日も皇室との関係が深い寺院である。それにしては、どこを見ても中国色が強いことに驚くとともに、明治の神仏分離令が出たときは、驚天動地だったろうなあ、と感慨に誘われた。
■銀閣寺[東山慈照寺]:特別公開「東山文化の原点 国宝東求堂」
帰りの新幹線まで、まだ時間があったので、急ぎ、銀閣寺へ。この日までの特別公開「東求堂(とうぐどう)」が目的である。拝観はガイドツアー形式のため、次の出発まで少し待つ。私の組は、こじんまりと6人で出発。その前は18人だったというから、これにも運不運がある。本堂では、与謝蕪村や池大雅の襖絵を間近に拝観。庭の銀沙灘・向月台という砂盛りが江戸時代に始まるものであること、月1回作り直しをしていることなど、興味深いお話を聞く。
渡り廊下を通って、創建当時の遺構とされる東求堂に移る。中を覗くと、思わぬところ(本堂に背を向けた壁のくぼみ ※矢印のあたり)に法体姿の足利義政公像が安置されている。等身大と思われる大きなお像で、いい大人がかくれんぼしているみたいだった。
奥に進むと四畳半の書院「同仁斎」。明かり障子の下の付書院には、「国宝」の札のついた『君台観左右帳記』の太い巻子と、墨、筆、硯、水瓶などの「唐物」が、決めごとどおりに並べられている。女性ガイドさんのお話では、この東求堂公開は毎年行われているが、今年は観音堂が修復中ということもあって、和尚さんの発案で、特別に唐物飾りを再現してみたのだそうだ。嬉しい。昨年、正木美術館の特別展(東京美術倶楽部)で、ここ東求堂に唐物飾りを再現するプロジェクトをビデオで見たときもうっとりしたが、自分の目で見ることができて、感激もひとしお。ただし、あとで確かめたら『君台観左右帳記』はレプリカです、とのこと。さらに渡り廊下でつながれた弄清亭(ろうせいてい)では、奥田元宋(1912-2003)画伯の襖絵を拝観。寺院って、古いものに新しいものを取りあわせていくことに躊躇がなくて、いいなあ。きびきびしたガイドさんの説明が、とても気持ちよかった。
バスで京都駅に戻り、予定どおりの新幹線に乗車。格別に実り多かった連休の旅もこれにて終了である。さて、次回は…?