○徳田雄洋『デジタル社会はなぜ生きにくいか』(岩波新書) 岩波書店 2009.5
「わかりにくい操作、突然の不具合、巧妙な詐欺など、デジタル化社会に生きる困難は確実に深まっている」というのが本書の前提である。そして、2つのとらえ方が示される。ひとつは、デジタル社会には、失うものより得るもののほうが多いという楽観論。もうひとつは、得るものの総量と失うものの総量は等しいという悲観論。これらの見方は正しいだろうか?という問題提起を受けて、デジタル社会の具体的な観察に入る。「デジタルテレビ」「デジタルカメラ」「携帯電話」などの情報機器が抱える問題点、「銀行」「鉄道の駅」「空港」などで起こり得るトラブルなど。特に目新しい情報はなくて、あーあるよな、という、既知の、あるいは想定内の記述だった。
最終的に、著者の結論は以下のとおり。デジタル社会では、送り手、伝え手、受け手の間の知識伝達が重要である。知識伝達が不全の場合は失うものが大きく、知識伝達が十分であれば、得るものが優勢となる。それゆえ「著者も含めて、送り手と伝え手の責任は大きい」というのは、コンピュータ科学者として、とても誠実な発言だと思う。けれでも、もっぱら知識の「受け手」である一般読者は、何をどうすればいいのか。「知識伝達」自体がデジタル技術に依存しており、デジタル社会に適応した者でなければ、十分な知識を得ることができない現代では、同語反復の結論なんじゃないか、と思った。
いくぶん丁寧な状況分析として、デジタル社会特有の困難は「変化が速いこと、一人で直接操作させられること、機器が多機能なこと、見かけが単純で本物と偽物の区別がつきにくいことによってひき起こされる」という記述がある。でも「変化の速さ」という点では、明治維新や終戦の前後に起きたドラスティックな社会構造の変化(想像に拠る)とか、1970~80年代の消費社会における目まぐるしい流行の移り変わりに比べれば、80年代に覚えたキーボード操作や、90年代半ばに覚えたウェブ操作で、今でも何とか渡っていけるデジタル社会を、私はそんなに「変化が速い」とは思わない。同じ基本操作で、引き出せる情報がどんどん増えているのだから、なんとありがたい社会だろうかと思っている。「一人で直接操作させられること」を負担に感じるタイプは、なるほど、デジタル社会に不向きかもしれない。私は幸いにして、多すぎる共同作業より、こっちのほうが好きだ。なので、デジタル社会に過大な期待は持っていないが、そんなに「生きにくい」という実感もない。
結論に先立って著者は、デジタル社会を生きるための、今日からでも実践できる「心構え」5項目を示している。(1)半分信用し、半分信用しない。(2)必要な知識や情報を得て、自分を守り、他人の立場を尊重する。(3)自分ですることの境界線を定める。(4)利用することと利用しないことの境界線を定める。(5)危険性を分散し、代替の方法を持つ。これらは「平凡な真理」であるが、よく分かる。というか、この5項目が身についていれば、社会がどんなふうに変貌しても、さほど嘆くことはないのである。
「わかりにくい操作、突然の不具合、巧妙な詐欺など、デジタル化社会に生きる困難は確実に深まっている」というのが本書の前提である。そして、2つのとらえ方が示される。ひとつは、デジタル社会には、失うものより得るもののほうが多いという楽観論。もうひとつは、得るものの総量と失うものの総量は等しいという悲観論。これらの見方は正しいだろうか?という問題提起を受けて、デジタル社会の具体的な観察に入る。「デジタルテレビ」「デジタルカメラ」「携帯電話」などの情報機器が抱える問題点、「銀行」「鉄道の駅」「空港」などで起こり得るトラブルなど。特に目新しい情報はなくて、あーあるよな、という、既知の、あるいは想定内の記述だった。
最終的に、著者の結論は以下のとおり。デジタル社会では、送り手、伝え手、受け手の間の知識伝達が重要である。知識伝達が不全の場合は失うものが大きく、知識伝達が十分であれば、得るものが優勢となる。それゆえ「著者も含めて、送り手と伝え手の責任は大きい」というのは、コンピュータ科学者として、とても誠実な発言だと思う。けれでも、もっぱら知識の「受け手」である一般読者は、何をどうすればいいのか。「知識伝達」自体がデジタル技術に依存しており、デジタル社会に適応した者でなければ、十分な知識を得ることができない現代では、同語反復の結論なんじゃないか、と思った。
いくぶん丁寧な状況分析として、デジタル社会特有の困難は「変化が速いこと、一人で直接操作させられること、機器が多機能なこと、見かけが単純で本物と偽物の区別がつきにくいことによってひき起こされる」という記述がある。でも「変化の速さ」という点では、明治維新や終戦の前後に起きたドラスティックな社会構造の変化(想像に拠る)とか、1970~80年代の消費社会における目まぐるしい流行の移り変わりに比べれば、80年代に覚えたキーボード操作や、90年代半ばに覚えたウェブ操作で、今でも何とか渡っていけるデジタル社会を、私はそんなに「変化が速い」とは思わない。同じ基本操作で、引き出せる情報がどんどん増えているのだから、なんとありがたい社会だろうかと思っている。「一人で直接操作させられること」を負担に感じるタイプは、なるほど、デジタル社会に不向きかもしれない。私は幸いにして、多すぎる共同作業より、こっちのほうが好きだ。なので、デジタル社会に過大な期待は持っていないが、そんなに「生きにくい」という実感もない。
結論に先立って著者は、デジタル社会を生きるための、今日からでも実践できる「心構え」5項目を示している。(1)半分信用し、半分信用しない。(2)必要な知識や情報を得て、自分を守り、他人の立場を尊重する。(3)自分ですることの境界線を定める。(4)利用することと利用しないことの境界線を定める。(5)危険性を分散し、代替の方法を持つ。これらは「平凡な真理」であるが、よく分かる。というか、この5項目が身についていれば、社会がどんなふうに変貌しても、さほど嘆くことはないのである。