○橋本健二『居酒屋ほろ酔い考現学』 毎日新聞社 2008.6
橋本健二氏は、「格差」「階級」「貧困」の論じ手として、私が最も信頼をおく社会学者である。けれども、著者のホームページで本書の存在を知ったときは、思わず眉をひそめてしまった。
これはタイトルが悪い。著者が冒頭で紹介しているように、「考現学」とは今和次郎が創始した現代風俗研究の方法である。今の調査は「徹底した観察と、きちんとした記録方法」に支えられており、社会学の補助学問と呼び得るものだった。さらに、その根底には格差と階級の違いに対する注目があった。けれども、考現学は十分に発達することなく、現在では「気ままに書かれたエッセイ」に名前をとどめるだけとなってしまった。それゆえ、私は、本書のタイトルを見た瞬間、「階級論」で売れた学者が、乗せられて(?)出してしまった、勘違いのエッセイ本だと思ったのである。
読んでみたら、全然違った。なるほど、銀座で、赤羽で、浅草で、著者が実際に通った居酒屋のたたずまいと客層が、実感とともに語られているあたりは「食通エッセイ」の趣きで、間口が広い(とっつきやすい)。けれども、そこから、するすると、著者の専門分野「格差」「階級」「貧困」の考察に入っていく。「貧困」とは何か。「普通の暮らし」ができないことを貧困という。たまには居酒屋に行くというのは「普通の暮らし」(健康で文化的生活)の一部である。だから居酒屋に行けるというのは、人権の一部だということができる。もしも学術書にこんなことが書いてあったら、与太話と思って読み飛ばすところだが、本書を読んで、「居酒屋の快適さ」を思い起こした読者なら、そうだ、とうなずくことだろう。そして、「収入階層別に見た個人の1ヶ月あたり飲食代支出の推移」とか「収入階級別に見た酒税の負担率」とか、客観的な数量データに目を凝らし、著者の論理的な分析に耳を傾けてしまう。「ほろ酔い」なんて言っているけれど、実にきっちりした社会学の好著である。
また、戦後の東京の成り立ちを知る上でも、本書は興味深く、「ヤミ市」が都市経済復興の立て役者であったことを、あらためて理解した。おおよそ駅周辺に出現したヤミ市は、1960年代以降、(1)代替地に移転したもの=新宿、(2)駅前ビルや地下街に姿を替えたもの=新橋、(3)現在も原形が残っているもの=吉祥寺、があるという。これって、ちょうど吉見俊哉氏の『都市のドラマトゥルギー』が扱った2つの時代の間(はざま)に嵌まる東京盛り場論だなあ、と思った。
東京の地形と「山手」「下町」文化の「国境」(階級・格差の境界でもある)を重ねて論じたところも面白かった。私は、中沢新一の『アースダイバー』を思い出したが、堅実な文献(及び映像資料)が多数あがっていて、とても参考になる。そして「国境」には意外な居酒屋の名店があるという発見も。「やきとりとは何か」の考察も、年来の疑問を解いてくれた。串に差して焼いた肉は「やきとり」なのである。
けれども、現実に立ち返ると、やっぱり女ひとりで居酒屋に入るのはためらわれる。もうちょっと年を重ねたら、居酒屋の空気にも溶け込めそうな気がするのだけど。むかし、男ひとりで甘味屋には行けない、というオジサンの告白を聞いて、そんなに気にしなくても、と微笑ましく思ったことがあるが、お互い様かなあ。
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これはタイトルが悪い。著者が冒頭で紹介しているように、「考現学」とは今和次郎が創始した現代風俗研究の方法である。今の調査は「徹底した観察と、きちんとした記録方法」に支えられており、社会学の補助学問と呼び得るものだった。さらに、その根底には格差と階級の違いに対する注目があった。けれども、考現学は十分に発達することなく、現在では「気ままに書かれたエッセイ」に名前をとどめるだけとなってしまった。それゆえ、私は、本書のタイトルを見た瞬間、「階級論」で売れた学者が、乗せられて(?)出してしまった、勘違いのエッセイ本だと思ったのである。
読んでみたら、全然違った。なるほど、銀座で、赤羽で、浅草で、著者が実際に通った居酒屋のたたずまいと客層が、実感とともに語られているあたりは「食通エッセイ」の趣きで、間口が広い(とっつきやすい)。けれども、そこから、するすると、著者の専門分野「格差」「階級」「貧困」の考察に入っていく。「貧困」とは何か。「普通の暮らし」ができないことを貧困という。たまには居酒屋に行くというのは「普通の暮らし」(健康で文化的生活)の一部である。だから居酒屋に行けるというのは、人権の一部だということができる。もしも学術書にこんなことが書いてあったら、与太話と思って読み飛ばすところだが、本書を読んで、「居酒屋の快適さ」を思い起こした読者なら、そうだ、とうなずくことだろう。そして、「収入階層別に見た個人の1ヶ月あたり飲食代支出の推移」とか「収入階級別に見た酒税の負担率」とか、客観的な数量データに目を凝らし、著者の論理的な分析に耳を傾けてしまう。「ほろ酔い」なんて言っているけれど、実にきっちりした社会学の好著である。
また、戦後の東京の成り立ちを知る上でも、本書は興味深く、「ヤミ市」が都市経済復興の立て役者であったことを、あらためて理解した。おおよそ駅周辺に出現したヤミ市は、1960年代以降、(1)代替地に移転したもの=新宿、(2)駅前ビルや地下街に姿を替えたもの=新橋、(3)現在も原形が残っているもの=吉祥寺、があるという。これって、ちょうど吉見俊哉氏の『都市のドラマトゥルギー』が扱った2つの時代の間(はざま)に嵌まる東京盛り場論だなあ、と思った。
東京の地形と「山手」「下町」文化の「国境」(階級・格差の境界でもある)を重ねて論じたところも面白かった。私は、中沢新一の『アースダイバー』を思い出したが、堅実な文献(及び映像資料)が多数あがっていて、とても参考になる。そして「国境」には意外な居酒屋の名店があるという発見も。「やきとりとは何か」の考察も、年来の疑問を解いてくれた。串に差して焼いた肉は「やきとり」なのである。
けれども、現実に立ち返ると、やっぱり女ひとりで居酒屋に入るのはためらわれる。もうちょっと年を重ねたら、居酒屋の空気にも溶け込めそうな気がするのだけど。むかし、男ひとりで甘味屋には行けない、というオジサンの告白を聞いて、そんなに気にしなくても、と微笑ましく思ったことがあるが、お互い様かなあ。
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