○いとうせいこう、みうらじゅん『見仏記:ゴールデンガイド篇』 角川書店 2009.4
言うまでもないことだが、私は『見仏記』の愛読者である。調べてみたら、第1冊目が単行本として刊行されたのは1993年。16年前のことだ。私もまだ30代の前半でありました。高校の修学旅行の準備学習で仏像の魅力に目覚め、以後、仏像めぐりとご朱印集めを趣味としていた私は、突然の「先達」の出現に驚き、狂喜したのである。
以後、柴門ふみとか、モデルのはなさんとか、最近では仏像ガールとか何とか、仏像ファンを自称する人々が次々に登場してきたが(※こう並べてみると、メディアが喜ぶのは女性ばかりである)、私が先達とも心の師とも慕うのは、やっぱり、この二人を置いて他にない。ぶっ飛んだ話題の飛躍、ムダな饒舌にページを費やしているように見えて、押さえるべきツボはちゃんと押さえているのだ。仏教(信仰)2に観光8のリアリティ。
であればこそ、兵庫の鶴林寺では「みうら先生ですか。いつかいらっしゃると思っていました」と"イケジュウ"(イケてる住職)さんに歓迎され、会津では「昨日インターネットでよーく読んでおきました。おまかせください」と"獅子"ことタクシー運転手のNさんをやる気にさせるのである。
本書に取り上げられた寺は、奈良・京都・福島・和歌山そして兵庫エリア。そうそう、京田辺の観音寺の十一面観音はビューティなんだよなあ。福島・恵隆寺の幕に隠れた巨大な立木観音(8メートル!)も見に行ったなあ。和歌山・道成寺の千手観音は、まさにパーフェクト。「鎌倉が動きで躍動感を出したとすれば、平安は厚みでしょう。体の太さで生命感が出た」という、みうらさんの鑑賞眼も、私にはパーフェクトに感じられた。そして、まだ見ぬ兵庫・浄土寺の阿弥陀三尊や、見たはずなのにあまり記憶のない山科・随心院の金剛薩捶像に対しては、あらたな憧憬を掻き立てられる。
「あとがき」によれば、本書の刊行を機に見仏の旅は新たなスタートを切るらしい。嬉しい。まだまだ続けてください。「いつかいらっしゃると思っていました」というお寺は、まだたくさんあるはずだから。
言うまでもないことだが、私は『見仏記』の愛読者である。調べてみたら、第1冊目が単行本として刊行されたのは1993年。16年前のことだ。私もまだ30代の前半でありました。高校の修学旅行の準備学習で仏像の魅力に目覚め、以後、仏像めぐりとご朱印集めを趣味としていた私は、突然の「先達」の出現に驚き、狂喜したのである。
以後、柴門ふみとか、モデルのはなさんとか、最近では仏像ガールとか何とか、仏像ファンを自称する人々が次々に登場してきたが(※こう並べてみると、メディアが喜ぶのは女性ばかりである)、私が先達とも心の師とも慕うのは、やっぱり、この二人を置いて他にない。ぶっ飛んだ話題の飛躍、ムダな饒舌にページを費やしているように見えて、押さえるべきツボはちゃんと押さえているのだ。仏教(信仰)2に観光8のリアリティ。
であればこそ、兵庫の鶴林寺では「みうら先生ですか。いつかいらっしゃると思っていました」と"イケジュウ"(イケてる住職)さんに歓迎され、会津では「昨日インターネットでよーく読んでおきました。おまかせください」と"獅子"ことタクシー運転手のNさんをやる気にさせるのである。
本書に取り上げられた寺は、奈良・京都・福島・和歌山そして兵庫エリア。そうそう、京田辺の観音寺の十一面観音はビューティなんだよなあ。福島・恵隆寺の幕に隠れた巨大な立木観音(8メートル!)も見に行ったなあ。和歌山・道成寺の千手観音は、まさにパーフェクト。「鎌倉が動きで躍動感を出したとすれば、平安は厚みでしょう。体の太さで生命感が出た」という、みうらさんの鑑賞眼も、私にはパーフェクトに感じられた。そして、まだ見ぬ兵庫・浄土寺の阿弥陀三尊や、見たはずなのにあまり記憶のない山科・随心院の金剛薩捶像に対しては、あらたな憧憬を掻き立てられる。
「あとがき」によれば、本書の刊行を機に見仏の旅は新たなスタートを切るらしい。嬉しい。まだまだ続けてください。「いつかいらっしゃると思っていました」というお寺は、まだたくさんあるはずだから。