○正岡子規『仰臥漫録』(岩波文庫) 岩波書店 1927.7
『仰臥漫録』は子規の病床日記。主な記事は、明治34年(1901)9月2日から10月29日までの間に書かれた。そのあと、翌年9月まで、短い心覚えのメモや草花のスケッチや俳句、短歌などが書き留められている。公表を予定せずに書かれた私日記のため、死を控えた人間の姿が虚飾なく描かれている、と言われる。
確かに『仰臥漫録』の文体は、公表を前提に執筆された『墨汁一滴』『病牀六尺』とはずいぶん異なる。だが、「読者」という存在を全く意識していないかといえば、そんなことはない。なんというか、第一義的には、創作者である子規が、自分自身という最後の読者に向けて書いているような気がする。
では、公表予定のなかった私日記が、どのようにして世に出たのか。ネットで調べた限りでは以下のとおりである。当初、ただ一人この日記の面白さを知っていた虚子が、雑誌『ホトトギス』明治38年(1905)1月号の付録につけたところ、たちまち子規の代表作となった(※Googleブックス:まつばらとうる『隣の墓: 子規没後の根岸・子規庵変遷史』74頁あたり)。ということは、NACSIS Webcatで検索される『仰臥漫録:子規遺篇』(出版年不明、8巻4号附録とあり)というのはこれだろうか? 東大の鴎外文庫(鴎外旧蔵書)にも入っているようだが…。
続いて、大正7年(1918)、子規の17回忌に際し、岩波書店が正岡家秘蔵の原本から木版復刊した。大正9年(1920)の斎藤茂吉の手帳には「仰臥漫録を讀む」という記載がある。昭和2年(1927)に岩波文庫の第1回発売書目に選ばれたときは、既に多くのファンがいたのだろう。一方、木版は震災で失われ(前掲書、76頁)、最も大切な原本も、昭和20年の空襲で子規庵が焼失して以来、行方が分からなくなっていた。それが、平成14年(2002)に子規庵敷地内の土蔵で発見され、現在は兵庫県芦屋市の虚子記念文学館に保管されているという。ただし、これについては、根岸の子規庵に行くと、返還を希望する旨の声明が張られている。
本書が、このような波乱の運命をたどってきたのも、その比類ない文学的魅力が一因なのだろう。食事と便通の単調な記録、病人らしいエゴイズム、暗い自殺の衝動。その中に挟まれた、他愛ない友のおしゃべりや、少年時代の回想は、日常生活のいとおしさを強く感じさせる。「焼くが如き昼の暑さ去りて夕顔の花の白きに夕風そよぐ処何の理屈か候べき」というのは、子規が発見した「美」の極地として描かれているが、なんとなく久隅守景の『納涼図屏風』を思い出させる。
深く印象に残るのは、病床の子規に献身的な看病を捧げた母と妹、とりわけ、この日記に「同感同情のなき木石の如き女なり」と書かれた妹の律である。台所の隅で、野菜か香の物が一品あれば食事は足り、肉や肴を自己の食料とすることなど夢にも考えていない、という子規の観察は正しいだろう。もし現代の女性が、同じように肉親の介護で、何年も家に縛りつけられるようなことになったら、そのために失った自分の可能性を思って、あれこれ煩悶すると思うが、律には、そのような煩悶はなかったのではないか。惑乱する息子の枕元で静かに「しかたがない」と答えるしかない老母も同じである。どんな運命もあるがままに受け入れるのが、当時の日本の、一般的な女性の姿だったのではないかと思う。
いや、当時の男性だって、自ら運命を切りひらき、成りたい自分に成るために、たゆまぬ努力を続けることのできた者がどれだけいたか。子規は間違いなく、数少ないそのひとりだったはずだが、病に倒れてしまう。どれだけ無念だったか。その無念は、母と妹に理解されていたか否か。
それでも三人は、時折「家族団欒会」を開き、集まって菓子を食う。死の前年、子規は「誕生日の祝いおさめ」と称して料理屋から会席膳を取り寄せ、母と妹にふるまう(虚子に借りた借金から)。不思議な関係というべきだろうか。いや、どこの家族も、だいたいこんなものだ、という気がする。
※子規自筆の水彩画がカラー図版で楽しめるのは、角川ソフィア文庫版↓
『仰臥漫録』は子規の病床日記。主な記事は、明治34年(1901)9月2日から10月29日までの間に書かれた。そのあと、翌年9月まで、短い心覚えのメモや草花のスケッチや俳句、短歌などが書き留められている。公表を予定せずに書かれた私日記のため、死を控えた人間の姿が虚飾なく描かれている、と言われる。
確かに『仰臥漫録』の文体は、公表を前提に執筆された『墨汁一滴』『病牀六尺』とはずいぶん異なる。だが、「読者」という存在を全く意識していないかといえば、そんなことはない。なんというか、第一義的には、創作者である子規が、自分自身という最後の読者に向けて書いているような気がする。
では、公表予定のなかった私日記が、どのようにして世に出たのか。ネットで調べた限りでは以下のとおりである。当初、ただ一人この日記の面白さを知っていた虚子が、雑誌『ホトトギス』明治38年(1905)1月号の付録につけたところ、たちまち子規の代表作となった(※Googleブックス:まつばらとうる『隣の墓: 子規没後の根岸・子規庵変遷史』74頁あたり)。ということは、NACSIS Webcatで検索される『仰臥漫録:子規遺篇』(出版年不明、8巻4号附録とあり)というのはこれだろうか? 東大の鴎外文庫(鴎外旧蔵書)にも入っているようだが…。
続いて、大正7年(1918)、子規の17回忌に際し、岩波書店が正岡家秘蔵の原本から木版復刊した。大正9年(1920)の斎藤茂吉の手帳には「仰臥漫録を讀む」という記載がある。昭和2年(1927)に岩波文庫の第1回発売書目に選ばれたときは、既に多くのファンがいたのだろう。一方、木版は震災で失われ(前掲書、76頁)、最も大切な原本も、昭和20年の空襲で子規庵が焼失して以来、行方が分からなくなっていた。それが、平成14年(2002)に子規庵敷地内の土蔵で発見され、現在は兵庫県芦屋市の虚子記念文学館に保管されているという。ただし、これについては、根岸の子規庵に行くと、返還を希望する旨の声明が張られている。
本書が、このような波乱の運命をたどってきたのも、その比類ない文学的魅力が一因なのだろう。食事と便通の単調な記録、病人らしいエゴイズム、暗い自殺の衝動。その中に挟まれた、他愛ない友のおしゃべりや、少年時代の回想は、日常生活のいとおしさを強く感じさせる。「焼くが如き昼の暑さ去りて夕顔の花の白きに夕風そよぐ処何の理屈か候べき」というのは、子規が発見した「美」の極地として描かれているが、なんとなく久隅守景の『納涼図屏風』を思い出させる。
深く印象に残るのは、病床の子規に献身的な看病を捧げた母と妹、とりわけ、この日記に「同感同情のなき木石の如き女なり」と書かれた妹の律である。台所の隅で、野菜か香の物が一品あれば食事は足り、肉や肴を自己の食料とすることなど夢にも考えていない、という子規の観察は正しいだろう。もし現代の女性が、同じように肉親の介護で、何年も家に縛りつけられるようなことになったら、そのために失った自分の可能性を思って、あれこれ煩悶すると思うが、律には、そのような煩悶はなかったのではないか。惑乱する息子の枕元で静かに「しかたがない」と答えるしかない老母も同じである。どんな運命もあるがままに受け入れるのが、当時の日本の、一般的な女性の姿だったのではないかと思う。
いや、当時の男性だって、自ら運命を切りひらき、成りたい自分に成るために、たゆまぬ努力を続けることのできた者がどれだけいたか。子規は間違いなく、数少ないそのひとりだったはずだが、病に倒れてしまう。どれだけ無念だったか。その無念は、母と妹に理解されていたか否か。
それでも三人は、時折「家族団欒会」を開き、集まって菓子を食う。死の前年、子規は「誕生日の祝いおさめ」と称して料理屋から会席膳を取り寄せ、母と妹にふるまう(虚子に借りた借金から)。不思議な関係というべきだろうか。いや、どこの家族も、だいたいこんなものだ、という気がする。
※子規自筆の水彩画がカラー図版で楽しめるのは、角川ソフィア文庫版↓