○小島毅『父が子に語る近現代史』 トランスビュー 2009.11
そもそも、インド初代首相のネルー氏が書いた『父が子に語る世界歴史』という本があって、それを念頭に、著者は『父が子に語る日本史』(2008.10)を執筆し、さらに続編として書かれたのが本書である。私は読んでいないが、前作は江戸時代で終わっているという。
本書が扱う近現代史はかなり近世に寄っており、1701年の江戸城松の廊下の傷害事件(忠臣蔵の発端)から始まる。「忠義」に支えられた体制の固定化、これを覆そうとした改革の試みから、18世紀後半、全国に「教育熱」が普及し、19世紀の新しい国づくりを担った、魅力的な人材が輩出する下地となった。そして、明治、大正、昭和と進み、第二次世界大戦の終結までをやや詳しく論じたあと、激動の「1968年」に、特に独立の1章が設けられている。
著者も述べているように、本書は「あらゆる事象にバランスよく配慮して過不足なく事項を列記」した歴史の教科書ではない。「枝葉をそぎ落とし、話の筋をわかりやすくして、自分が高校生なら読んでみたいと思う内容をまとめてみた」もので、「本書とはまったく異なる観点から近現代史を語る方法は、ほかにも無数に存在する」だろう。「歴史は基本的に文学だ」(おお、この発言はかなり大胆)ということを認識するには、いいテキストだと思う。
では、「小島家の本」の歴史観の特徴は何かといえば、「外国あってこその『日本』」がキーワードだと思う。私たちは、これから外国とつきあわざるをえないからこそ、日本の歴史を学ぶ必要がある。だから、著者の語る近現代史は、近隣諸国との関係、戦争責任(軍部だけでなく、常民=普通の人々の)をめぐって、かなり厳しい。
いわゆる「司馬史観」について、著者は中塚明氏の『司馬遼太郎の歴史観』(高文研、2009)に触発されたことを述べている。曰く、司馬は『韓のくに紀行』で、古代における韓国文化の日本への影響を大きくとりあげていながら、紀行現場のすぐ近くになる東学農民戦争の史跡をまわっていない。まあこれは、『韓のくに紀行』が週刊誌連載だったことを考えると、編集者の意向(読者への配慮)が影響しているかもしれないと思う。司馬が、というより、多くの日本人が、古代の日韓交流には好ましいイメージを持っていても、近代以降には無関心・無頓着で、かなり良心的な場合でも「上から目線」を免れないことには、自省的でいたい。
それから「教育」に関する指摘も、ところどころ、印象的だった。ひとつは、著者の勤務先である東京大学が、その源流として「幕府天文方」と「種痘所」を挙げているだけで「昌平坂学問所」を無視しているという指摘。何?ほんと?と思って、東大の公式サイトを見たら、確かに「沿革略図」では、実学の源流である「幕府天文方」と「種痘所」からの線は、明治10年設立の東京大学(法理文・医)につながっているのに、「昌平坂学問所」の線は途中で立ち消えている。ええ~。確かに、組織沿革としては、大学校は儒者と国学者の抗争激化の末、潰されたんだったと思う。でも、人文科学の徒である著者が、これに異を唱える気持ちはよく分かる。
また、柳田民俗学の用語「常民」を用いるにあたって、「人民」「大衆」には「権力者によって不当に虐げられているが、正しい指導者を得て立ち上がることによって、自分たち自身を解放できる存在」というニュアンスが含まれていることを指摘している。「ふつうの人たちというのは、そんなに立派なものではないでしょう」という冷めた認識に、私は大きく共感する。

本書が扱う近現代史はかなり近世に寄っており、1701年の江戸城松の廊下の傷害事件(忠臣蔵の発端)から始まる。「忠義」に支えられた体制の固定化、これを覆そうとした改革の試みから、18世紀後半、全国に「教育熱」が普及し、19世紀の新しい国づくりを担った、魅力的な人材が輩出する下地となった。そして、明治、大正、昭和と進み、第二次世界大戦の終結までをやや詳しく論じたあと、激動の「1968年」に、特に独立の1章が設けられている。
著者も述べているように、本書は「あらゆる事象にバランスよく配慮して過不足なく事項を列記」した歴史の教科書ではない。「枝葉をそぎ落とし、話の筋をわかりやすくして、自分が高校生なら読んでみたいと思う内容をまとめてみた」もので、「本書とはまったく異なる観点から近現代史を語る方法は、ほかにも無数に存在する」だろう。「歴史は基本的に文学だ」(おお、この発言はかなり大胆)ということを認識するには、いいテキストだと思う。
では、「小島家の本」の歴史観の特徴は何かといえば、「外国あってこその『日本』」がキーワードだと思う。私たちは、これから外国とつきあわざるをえないからこそ、日本の歴史を学ぶ必要がある。だから、著者の語る近現代史は、近隣諸国との関係、戦争責任(軍部だけでなく、常民=普通の人々の)をめぐって、かなり厳しい。
いわゆる「司馬史観」について、著者は中塚明氏の『司馬遼太郎の歴史観』(高文研、2009)に触発されたことを述べている。曰く、司馬は『韓のくに紀行』で、古代における韓国文化の日本への影響を大きくとりあげていながら、紀行現場のすぐ近くになる東学農民戦争の史跡をまわっていない。まあこれは、『韓のくに紀行』が週刊誌連載だったことを考えると、編集者の意向(読者への配慮)が影響しているかもしれないと思う。司馬が、というより、多くの日本人が、古代の日韓交流には好ましいイメージを持っていても、近代以降には無関心・無頓着で、かなり良心的な場合でも「上から目線」を免れないことには、自省的でいたい。
それから「教育」に関する指摘も、ところどころ、印象的だった。ひとつは、著者の勤務先である東京大学が、その源流として「幕府天文方」と「種痘所」を挙げているだけで「昌平坂学問所」を無視しているという指摘。何?ほんと?と思って、東大の公式サイトを見たら、確かに「沿革略図」では、実学の源流である「幕府天文方」と「種痘所」からの線は、明治10年設立の東京大学(法理文・医)につながっているのに、「昌平坂学問所」の線は途中で立ち消えている。ええ~。確かに、組織沿革としては、大学校は儒者と国学者の抗争激化の末、潰されたんだったと思う。でも、人文科学の徒である著者が、これに異を唱える気持ちはよく分かる。
また、柳田民俗学の用語「常民」を用いるにあたって、「人民」「大衆」には「権力者によって不当に虐げられているが、正しい指導者を得て立ち上がることによって、自分たち自身を解放できる存在」というニュアンスが含まれていることを指摘している。「ふつうの人たちというのは、そんなに立派なものではないでしょう」という冷めた認識に、私は大きく共感する。