見もの・読みもの日記

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古書の掃き寄せ、古人の面影/落葉籠(森銑三)

2010-09-20 21:57:27 | 読んだもの(書籍)
○森銑三著、小出昌洋編『落葉籠』上・下(中公文庫) 中央公論新社 2009.5-6

  今年5月に天理ギャラリーで『秋成展』を見たあと、調べていたら「黌門客」というブログに行き当たって、本書に春雨物語の伝本についての記述があることを教えられた。森銑三さん(1895-1985)の高名はもちろんよく存じ上げているが、畏れ多くて、著作はひとつも読んだことがない。はじめ、森銑三さんか、図書館で著作集を探さないと駄目かな、と思った。よく見たら「中公文庫」とある。どうせ品切れ絶版だろう、と思って調べたら、2009年の刊行だという。やるなあ、中公文庫。普通の書店で簡単に手に入れることができた。

 本稿は、雑誌「古書通信」に昭和30年(1955)8月号より同41年(1966)8月号まで11年間にわたって連載された書誌学エッセイである。と言っても、固い話題が続くわけではない。数行から十数行の章段を最小単位とし、古書の一節、韻文や笑話や人物評などを紹介するとともに、著者の疑問や批評的コメントを付している。どこから読んでも面白い。上巻は近世以前の本(漢籍を含む)、下巻は明治以降の本と雑誌を話題にしていることが多いように思う。順不同に、たとえば、こんな話題。

・文禄年間に天草で刊行された「イソップ物語」の口語日本語が生彩に富んでいること。
・今でこそ誰でも読める「蕪村句集」だが、子規が俳諧研究に志した当時は閲覧が困難だったこと。
・フェノロサは写楽は好まなかったが、春信については「少年少女の小説的恋愛」を描かせたら世界的な名手と認めていたこと。
・シーボルトが、日本人の鍼灸医の手並みを見せてもらった後で「あなたも何かして見せてください」と求められ、「そこ許の腕を切って継いでみせましょうか」と戯れたこと。
・大町桂月が井上哲次郎を揶揄した歌のこと(確か、内田魯庵も井上哲次郎をからかっていたような)。
・「坊ッちゃん」は明治語で、明治の初年には東京でも「お坊さん」だったこと。
・光悦は清貧に甘んじ、二十歳の頃から八十歳で果てるまで小者一人、飯焚き一人と暮らしていたこと。一生諂い言を言わなかったこと。
・ある下女が「林大学頭」を「林大黒」という神様と聞き違えていたこと。

 画家についての記述も多くて、渡辺省亭が「応挙はもと不器用な人だったのであるが、修業であそこまで行ったのだ」と評しているのは肯ける。さらに「その反対なのは探幽で、探幽はもともと器用な人だったが、小成に甘んじないで、修業を重ねた」と語っているのは、一層味わい深い。

 笑い話の小ネタとして記憶に残るものもあれば、「写本で伝えられた随筆雑著には、江戸時代に公にすることのできなかった秘話が載せられている」とか「古活字版ばかりを有難がるのは間違い。近世中期以降の活字版にも出来のいいものや、伝本が少なく貴重なものがある」など、ノートにとどめておきたい書誌学的な知識もある。明治期の雑誌には、同時代の学者や文学者が答えた「私の好きな夏の料理」や「天才とは誰か」という類のアンケートが頻りに掲載されているが、こうした回答の短文は全集にも収録されていないのではないか、という指摘にも教えられた。こういう雑誌を丹念に読んでいくと、意外な発見があるかもしれない。

 下巻では、昭和38年(1963)から刊行の始まった『国書総目録』の誤謬が、ガンガン指摘されていて、びっくり。うわー。でも、こういう読者の存在が、本をつくる側を鍛えるのだろうなあ。同じく下巻で触れられている「西鶴輪講」には、必ずしも文学の専門家ではない、各界の「特殊な物識」がたくさん参加していたという。本来、一国の「情報(知識)基盤」とは、ブロードバンドの普及率とか電子的コンテンツの数量ではなく、こういう在野知識人層の厚さと広がりをいうのではないだろうか。

 ベストセラーは大衆に読ませておけばいい。自分は自分の好きな本を読む、とうそぶく著者の読書量には及びもつかないが、私も同じ道を細々とたどっていきたいと思う。
コメント
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