見もの・読みもの日記

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「僕」からの贈り物/街場のメディア論(内田樹)

2010-09-07 23:38:55 | 読んだもの(書籍)
○内田樹『街場のメディア論』(光文社新書) 光文社 2010.8

 変な思い込みと笑われるかもしれないが、この国の将来に何ひとつ明るい兆しが見えなくて、むやみと閉塞感にとらわれる昨今、書店のワゴンに山盛りになった本書を見て、ああ、内田樹さんの読者がこんなにいるんだったら、まだ日本は大丈夫かもしれない、と思った。私にとって内田さんは、そんな「安心」を誘発する著者である。

 本書は「街場」シリーズの第4弾。内容は「キャリア論」→「メディア論」→「出版論」の3段階で展開する。どうして「キャリア論」に始まるかというと、本書のもとになった講義が、大学の「キャリア教育プログラム」の一環として(これからメディアの世界でキャリアを形成することを希望する学生を対象に)行われたためだ。

 著者のキャリア論のキーワードを拾っていけば、「キャリアは他人のためのもの」「自分の能力について(本)人は知らない」「呼ばれる声を聞け」等々である。聞いた学生はどう思ったかな。私は、自分の20年余りの社会人経験をふりかえったとき、これらの言葉はものすごく腑に落ちる。自己評価よりも他人の声を信じようと腹を括ることで、何度、危機を乗り切ったことか。しかし、いま政府の主導するキャリア教育が、全く正反対の方向を目指しているのはなぜなんだろう? 自己決定・自己責任で勝ち残った、という認識をもっている人がそんなに多いのかな。

 中間部の(マス)メディア論も、厳しいが読み応えがある。既存メディアの凋落はインターネットがもたらしたものではない。むしろメディア(ジャーナリズム)自身の「知的劣化」にこそ原因がある、と著者は言う。メディアは、とりあえず弱者(推定正義)の側に立つという「定型」で語り始める。しかし、その「定型」を見直すことができない。最終的な責任を引き受ける個人が不在のまま、メディア(インターネットも含めて)の「定型的文体」は暴走する。

 心に沁みたのは、「『どうしてもこれだけは言っておきたい』という言葉は決して『暴走』したりしません」という一節だった。「だって、外圧で潰されてしまったら、あるいは耳障りだからというので聴く人が耳を塞いでしまったら、もうその言葉はどこにも届かないからです」。そうだ。言われてみれば、大事な内容ほど、謙虚かつ慎重に言葉を選ぶという「マナー」を、私は確かに心得ていたはずなのに、いつから、大声で発言すれば済むと思いなすようになってしまったのか。このあたり、本書の特徴である「…と僕は思います」という文体が、新鮮で心地よかった。今やネットもマスコミも「名無し」ばかりで、明確な発言主体としての「僕」に出会う機会などめったにないから。

 さらに著者は、メディアの業病ともいえる「変化への固執」が、「変えないほうがよいもの」(社会的共通資本=教育、医療など)に与えた悪影響を指弾する。的確な言葉を選びつつも、言いたいことをはっきり言う姿勢に共感し、手に汗握りながら読む。

 ただ、最後の出版論は、私は著者と意見が合わなかった。書物は著者から読者への「贈り物」であり、電子出版による著作権の侵害を強く危惧する人は「本の読者」でなく「本の購買者」に関心を払い過ぎている、というところまでは同意。私は「読まない本は買わない」主義なので、そうそう、もっと真の「読者」に焦点を合わせた議論をしてほしい、と思った。ところが、著者は違っていて、電子書籍よりも紙の書籍が勝るのは、「読むアテがなくても書棚に並べておく→あらまほしき自分(理想我)を他人に示す」という効能がある点だ、という。いや、これは気づかなかったなあ…。そもそも私、書棚を持ってないし(読んだ本は積んでおくか段ボール箱の中)。読むアテのない書籍を大量に持っている人を見ると、何が目的なのか、全く理解できなかったので、眼からウロコだった。

 ところで、内田先生は、先だって「新刊の塩漬け宣言」をされたばかり。しばらく新刊が読めないなら、しかたないから内田先生のブログを読みに行く。でも私は、無料のブログより、対価を払っても書籍のスタイルで読みたいのだが。あと、こうして拙い読後感想を公開することも、私にとっては、著者に対する「感謝とリスペクト」の表現なのである。

※内田樹の研究室:ウチダバブルの崩壊(2010/8/13)
コメント (2)
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