○西岡常一『木に学べ:法隆寺・薬師寺の美』(小学館文庫) 小学館 2003.12
単行本は1988年刊。けっこう有名な本だと思うけれど、有名すぎて読む機会を失っていた。先だって、小川三夫さんの『宮大工と歩く奈良の古寺』(文春新書、2010)を読んで、ああ、これは師匠の西岡常一さんの本も読んでみなければ、と思ったのだ。
正直なところ、私には、小川氏の本のほうがとっつきやすかった。同氏は、高校生まで寺にも建築にも無縁に育ちながら、修学旅行で訪れた法隆寺に電撃的な感銘を受け、宮大工への道を選ぶ。これは印象深いエピソードだけど、もしかしたら自分の身に起きてもおかしくなかった、と思わせるところがある。しかし、西岡常一氏のように、代々法隆寺の大工をつとめる家に生まれ、小学校を出ると大工見習いとなり、祖父、父の仕事を継いで棟梁になる人生というのは…もはや私の想像を隔絶したところにある。だから、私はおそるおそる本書を読み進んだ。むかしの人は(というと失礼だけど)こんなふうに仕事を覚え、道具を扱い、後進に相対したのか、と思いながら。
「むかしの人」と書いてしまったけれど、西岡棟梁の言葉に通底しているのは「職人」の誇りである。同氏が嫌うものは「学者」と「芸術家」。「学者というのは、ほんまに仕事という面から言うたら、どうにもならんもんでっせ」「今の人は、物まねをしてすぐに芸術家になりたがる。ちょっと人と変わったもん作ったら、自分は芸術家だと言いますわな」等の辛口の感慨がたびたび記されている。「職人」というのは、徹底して現場から考える(手と身体と経験から学ぶ)人々のことと言っていいだろう。それゆえ、彼らは議論を好まない。当然、最低限の言葉しか残さない。自分の仕事の耐用年数には細心の注意を払っても、自分の名前を残そうとはしない。
ああ、私の憧れる「仕事」はこういうものだったはずなのに…「人と変わったもん」がもてはやされ、「プレゼン」「売り込み」「ディベート」能力なしには一人前と見てもらえない昨今、人が「職人」として生きられる空間は、どんどん小さくなっているように思う。
いまどきの「ムダ嫌い」の政治家に読んでほしいと思ったのは、昔は民家でも社寺でも「(お金が)よけいにかかったというのが自慢でした」という話。予算よりも余計にお金を使うと「元を入れたな」とみんなが感心したものだという。もちろんこれは、施主も職人も、余計にかかったお金を自分のふところに入れるような不埒な真似はしないことが前提になっている。「安ければいい」という発想は、大量の使い捨てを生み、資源の無駄遣いを招いている、という指摘は全くそのとおりだ。
また、昔は親方がよその親から見習いを預かったときは、「なんぼバカでも、十年かかろうが十五年かかろうが」独立して飯が食えるまで責任を負ったという。いまさらだけど、こういう社会のセーフティネットは、捨ててはいけなかったんじゃないのかな。成果主義や効率主義に反しても。
さまざまな点で、今日の常識を見直す視点を提供してくれる本。あとがきを読んで、もとは1985-86年にアウトドア雑誌「BE-PAL」(あったな~そんな雑誌、と思ったら、まだ続いていた)に連載されたものと知って、ちょっと驚いた。意外な雑誌が生み出した企画だが、長く読み継がれていく価値のある証言である。
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正直なところ、私には、小川氏の本のほうがとっつきやすかった。同氏は、高校生まで寺にも建築にも無縁に育ちながら、修学旅行で訪れた法隆寺に電撃的な感銘を受け、宮大工への道を選ぶ。これは印象深いエピソードだけど、もしかしたら自分の身に起きてもおかしくなかった、と思わせるところがある。しかし、西岡常一氏のように、代々法隆寺の大工をつとめる家に生まれ、小学校を出ると大工見習いとなり、祖父、父の仕事を継いで棟梁になる人生というのは…もはや私の想像を隔絶したところにある。だから、私はおそるおそる本書を読み進んだ。むかしの人は(というと失礼だけど)こんなふうに仕事を覚え、道具を扱い、後進に相対したのか、と思いながら。
「むかしの人」と書いてしまったけれど、西岡棟梁の言葉に通底しているのは「職人」の誇りである。同氏が嫌うものは「学者」と「芸術家」。「学者というのは、ほんまに仕事という面から言うたら、どうにもならんもんでっせ」「今の人は、物まねをしてすぐに芸術家になりたがる。ちょっと人と変わったもん作ったら、自分は芸術家だと言いますわな」等の辛口の感慨がたびたび記されている。「職人」というのは、徹底して現場から考える(手と身体と経験から学ぶ)人々のことと言っていいだろう。それゆえ、彼らは議論を好まない。当然、最低限の言葉しか残さない。自分の仕事の耐用年数には細心の注意を払っても、自分の名前を残そうとはしない。
ああ、私の憧れる「仕事」はこういうものだったはずなのに…「人と変わったもん」がもてはやされ、「プレゼン」「売り込み」「ディベート」能力なしには一人前と見てもらえない昨今、人が「職人」として生きられる空間は、どんどん小さくなっているように思う。
いまどきの「ムダ嫌い」の政治家に読んでほしいと思ったのは、昔は民家でも社寺でも「(お金が)よけいにかかったというのが自慢でした」という話。予算よりも余計にお金を使うと「元を入れたな」とみんなが感心したものだという。もちろんこれは、施主も職人も、余計にかかったお金を自分のふところに入れるような不埒な真似はしないことが前提になっている。「安ければいい」という発想は、大量の使い捨てを生み、資源の無駄遣いを招いている、という指摘は全くそのとおりだ。
また、昔は親方がよその親から見習いを預かったときは、「なんぼバカでも、十年かかろうが十五年かかろうが」独立して飯が食えるまで責任を負ったという。いまさらだけど、こういう社会のセーフティネットは、捨ててはいけなかったんじゃないのかな。成果主義や効率主義に反しても。
さまざまな点で、今日の常識を見直す視点を提供してくれる本。あとがきを読んで、もとは1985-86年にアウトドア雑誌「BE-PAL」(あったな~そんな雑誌、と思ったら、まだ続いていた)に連載されたものと知って、ちょっと驚いた。意外な雑誌が生み出した企画だが、長く読み継がれていく価値のある証言である。