○永青文庫 冬季展示『没後400年 細川幽斎展』(2011年1月8日~3月13日)
平成22年(2010)は、細川家初代・幽斎(藤孝、1534-1610)の没後400年にあたり、様々な展覧会や記念の催しが行われた。うん、春に東博で行われた『細川家の至宝』の圧倒的なボリューム感は、記憶に新しいところ。本展は、没後400年を記念する今年度最後の細川幽斎展だという。
私はもともと日本史に弱くて、安土桃山時代は戦国三傑くらいしか知らない。この春、『細川家の至宝』展を見ながら、へえ~細川ガラシャって明智光秀の娘で、幽斎の息子の嫁なのか、と初めて認識したくらいのシロウトである。だが幸いなことに、この1年の間にマンガや小説で細川幽斎になじみが増し、会場の略年譜も、だいぶ理解できるようになった。
展示の始まり近くに掲げられていたのは、足利義昭の和歌懐紙。今年の大河ドラマ『江』の第1回で、和泉元彌が怪演していたっけ。幽斎は、幕臣として義昭の将軍任官に奔走し、信長の助力を得るが、後に義昭と信長の対立が表面化すると、信長側につく。永青文庫には59通(!)の信長書簡が伝わるそうだが、本展には、その6通が展示されており、天正3年5月20日、長篠の戦い前日の日付を持つものもある。戦国時代が目の前によみがえってくるようで、くらくらする。
細川幽斎筆『古今和歌伝授証明状案』も見どころのひとつ。このエピソードはすごいなあ。秀吉の死後、天下の情勢は次第に緊迫化し、幽斎の丹後田辺城は、石田三成方の西軍に包囲される。講和を拒絶し、討ち死を覚悟した幽斎は、古今伝授の講義の途中だった八条宮智仁親王に、伝授の証明書を進上する。展示は、幽斎の手許に残った写し(控え)で、原本は宮内庁書陵部に現存するそうだ。2ヶ月に及ぶ籠城戦の末、古今伝授が絶えることを惜しんだ後陽成天皇の勅命により、関ヶ原の戦いの2日前、講和が結ばれたが、包囲軍1万5千は関ヶ原の戦いに参戦することはできなかった。幽斎の反骨、一徹さと、引くところでは引くしたたかさが同時にうかがえて、興味深い。
それにしても、天下分け目の大乱の時にあたって、詩歌の解釈の奥義が失われることを惜しんで講和するって、どういう人々なんだ、彼らは。私は「日本って特殊」と軽々しくいうことを好まないが、戦争と文芸がこんなふうに表裏一体を為す国って、ほかにあるのだろうか…。
幽斎が、信長→秀吉→家康と天下の主に重用され続けたのは、和歌の知識・教養が、天下の掌握に欠くべからざる政治的有用性を持っていたからだ。これをつきつめると、日本の天皇制が持続してきた理由のひとつも、文芸(和歌)の尊重にあるのかもしれない、と思った。
このほか、2階の展示室では、江戸時代の狂言面(能面より表情豊かで楽しい)、白隠とその弟子たちの書画、茶道具などを展示。徳川家康筆の和歌色紙は、どう見ても美しくないのがご愛嬌。
同館には「季刊・永青文庫」という機関誌があって、ちょうど年4回の展覧会のカタログの代わりにもなっている。1冊300円というお手頃価格で、様々な記事が楽しめる。気になったニュースを2つ。ひとつは、iPadアプリ「細川家の名宝」が発売された。軽い気持ちで、ネットの情報を探したら、は、長谷雄草紙も入っている!! こんなこともあんなことも出来てしまうのか…詳しくは広告サイトの動画で。これは欲しい。もうひとつのニュースは、永青文庫の別館テラスにタヌキが出没しているとか。あんな都会の真ん中で?! いろいろと驚かせてくれる美術館である。
平成22年(2010)は、細川家初代・幽斎(藤孝、1534-1610)の没後400年にあたり、様々な展覧会や記念の催しが行われた。うん、春に東博で行われた『細川家の至宝』の圧倒的なボリューム感は、記憶に新しいところ。本展は、没後400年を記念する今年度最後の細川幽斎展だという。
私はもともと日本史に弱くて、安土桃山時代は戦国三傑くらいしか知らない。この春、『細川家の至宝』展を見ながら、へえ~細川ガラシャって明智光秀の娘で、幽斎の息子の嫁なのか、と初めて認識したくらいのシロウトである。だが幸いなことに、この1年の間にマンガや小説で細川幽斎になじみが増し、会場の略年譜も、だいぶ理解できるようになった。
展示の始まり近くに掲げられていたのは、足利義昭の和歌懐紙。今年の大河ドラマ『江』の第1回で、和泉元彌が怪演していたっけ。幽斎は、幕臣として義昭の将軍任官に奔走し、信長の助力を得るが、後に義昭と信長の対立が表面化すると、信長側につく。永青文庫には59通(!)の信長書簡が伝わるそうだが、本展には、その6通が展示されており、天正3年5月20日、長篠の戦い前日の日付を持つものもある。戦国時代が目の前によみがえってくるようで、くらくらする。
細川幽斎筆『古今和歌伝授証明状案』も見どころのひとつ。このエピソードはすごいなあ。秀吉の死後、天下の情勢は次第に緊迫化し、幽斎の丹後田辺城は、石田三成方の西軍に包囲される。講和を拒絶し、討ち死を覚悟した幽斎は、古今伝授の講義の途中だった八条宮智仁親王に、伝授の証明書を進上する。展示は、幽斎の手許に残った写し(控え)で、原本は宮内庁書陵部に現存するそうだ。2ヶ月に及ぶ籠城戦の末、古今伝授が絶えることを惜しんだ後陽成天皇の勅命により、関ヶ原の戦いの2日前、講和が結ばれたが、包囲軍1万5千は関ヶ原の戦いに参戦することはできなかった。幽斎の反骨、一徹さと、引くところでは引くしたたかさが同時にうかがえて、興味深い。
それにしても、天下分け目の大乱の時にあたって、詩歌の解釈の奥義が失われることを惜しんで講和するって、どういう人々なんだ、彼らは。私は「日本って特殊」と軽々しくいうことを好まないが、戦争と文芸がこんなふうに表裏一体を為す国って、ほかにあるのだろうか…。
幽斎が、信長→秀吉→家康と天下の主に重用され続けたのは、和歌の知識・教養が、天下の掌握に欠くべからざる政治的有用性を持っていたからだ。これをつきつめると、日本の天皇制が持続してきた理由のひとつも、文芸(和歌)の尊重にあるのかもしれない、と思った。
このほか、2階の展示室では、江戸時代の狂言面(能面より表情豊かで楽しい)、白隠とその弟子たちの書画、茶道具などを展示。徳川家康筆の和歌色紙は、どう見ても美しくないのがご愛嬌。
同館には「季刊・永青文庫」という機関誌があって、ちょうど年4回の展覧会のカタログの代わりにもなっている。1冊300円というお手頃価格で、様々な記事が楽しめる。気になったニュースを2つ。ひとつは、iPadアプリ「細川家の名宝」が発売された。軽い気持ちで、ネットの情報を探したら、は、長谷雄草紙も入っている!! こんなこともあんなことも出来てしまうのか…詳しくは広告サイトの動画で。これは欲しい。もうひとつのニュースは、永青文庫の別館テラスにタヌキが出没しているとか。あんな都会の真ん中で?! いろいろと驚かせてくれる美術館である。