見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

穴場の紅葉狩り/おひとり京都の秋(柏井壽)

2012-10-14 12:21:38 | 読んだもの(書籍)
○柏井壽『おひとり京都の秋』(光文社新書) 光文社 2010.9

 夏→秋→冬→春と続く京都案内シリーズの第2作目。私にとっては、3冊目になる。冬→春と読んできて、面白かったので、残りも読もうと思っていたのだが、最近、東京の書店では在庫を見かけなかった。先日、関西に出かけて、京都駅構内の書店に入ったら、さすが地元には揃えてあったので、折りもよし「秋」を読むことにした。

 観光客・修学旅行客であふれかえる「秋」は、「おひとり」がいちばん似つかわしくない季節のような気がする。そのせいか、ほかの季節に比べると、なるほどと膝を打つような穴場の紹介は少ない。月を思うなら桂離宮に銀閣寺、萩の名所は梨木神社。季節を代表する行事は時代祭と鞍馬の火祭。…しごく順当なラインナップだと思う。

 「穴場で紅葉狩り」に挙げられていた「八神社」(銀閣寺町)、洛北の「鷺森神社」(修学院宮ノ脇町)「八大神社」(一乗寺松原町)は知らなかった。ひとくちに神社仏閣というけれど、私は仏像拝観を楽しめるお寺のほうが好きで、神社の参詣を楽しめるようになったのは、つい最近なのだ。「達磨寺(法輪寺)」(上京区)は、名前だけ聞いたことはあったが、あまり訪ねることの少ないエリアなので、行ったことがなかった。

 記憶にとどめておこうと思った情報のひとつは、路線バスに乗って楽しむ紅葉。著者のおすすめは京都市バスの37号系統だという。三条京阪から西賀茂に至る路線だ。紅葉だけでなく銀杏(紫明通)も楽しめるというのに惹かれる。晴れた日の夕暮れが絶好というが、いつかそんなシチュエーションにめぐりあえるだろうか。賀茂街道を北に進むとき、賀茂川は右手に見えるので、右側の座席に座ること、というのも忘れずに。あと、下鴨神社の流鏑馬が行われる馬場の紅葉がすばらしい、というのも納得。緑の季節にしか行ったことがないが、想像はできる。

 美味いもの紹介は充実していると思ったが、価格的に私の感覚と合わないので、さらりと読み流した。大人のひとりランチは2千円くらいを「リーズナブル」ととらえるものか…。

 例によって、近江(滋賀県)の観光スポット紹介にもページが割かれている。そりゃあ、やっぱり秋は、永源寺~湖東三山~多賀大社だろう。永源寺のそばにあるという日登美美術館は知らなかった。バスで行けることになっているが、どのくらい便があるのかなあ…。

 実は、先週末の三連休旅行は、京都にも大津にも宿がとれず、少し離れた「草津」に初めて泊まったのだが、思いのほか、駅前が繁華で、暮らしやすそうだった。本書の著者は、週末を草津で生活するようになって半年あまりという。以前読んだ2冊にも、そのことは触れられていたのだが、すっかり忘れていた。本書には、草津駅前の美食の店がいくつか紹介されていて、ああ、この店あったあった、とすぐに思い浮かんだ。滋味康月、坐空、金燕の家。次の機会のためにここにメモしおく。
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西武沿線の思想史/レッドアローとスターハウス(原武史)

2012-10-14 00:31:43 | 読んだもの(書籍)
○原武史『レッドアローとスターハウス:もうひとつの戦後思想史』 新潮社 2012.9

 鉄道論から天皇論まで、原先生の著作は、ずっと追いかけてきたが、少年時代の実体験と戦後思想史を重ね合わせた『滝山コミューン1974』は衝撃的だった。ほぼ同じ時代を同じ東京で過ごした私には、無条件に「よく分かる」部分もあれば、全く「分からない」部分もあった。前者は、私もまた、戦後思想史の中で成長してきたのだ、ということを再発見させてくれたし、後者は、東京西部の団地育ちの著者と、下町の(狭いながらも)一軒家育ちの自分の文化的差異を認識させてくれた。

 本書は、いわば「滝山コミューン前史」である。記述は、1915(大正4)年、西武池袋線の前身である武蔵野鉄道の池袋-飯能間が開業した当時まで遡る。武蔵野鉄道は1935年に破産し、西武の総帥となる堤康次郎が経営再建に乗り出す。1930年代から40年代にかけて、この地域(清瀬市~東村山市)には、ハンセン病患者や結核病患者の療養所が次々に建てられ、西武の各駅は患者や見舞客に利用された。

 戦後は、西武の「天皇」と呼ばれた堤康次郎によって、沿線の開発が進められた。猪瀬直樹の『ミカドの肖像』を読んだのはずいぶん前だが、団地の話は出てきたかなあ。本書によれば、50年代から70年代にかけて、西武沿線には公団や都営の大型団地が次々に建てられ、「団地を主体とした西武的郊外」が現れる。これは、堤のライバル・五島慶太が東急沿線に、時間をかけて一戸建て主体の郊外を作ろうとした戦略とは大きく異なっていた。

 興味深いのは、その意図せざる結果である。集合住宅の設計は、1920年前後にオランダやドイツで始まったが、量産住宅(マスハウジング)の工法は、主に社会主義諸国で普及していく。日本でも、初期の団地にはスターハウスやテラスハウスなど個性的な設計が見られたが、やがて「団地サイズ」に規格化していく。その結果、堤康次郎が徹底した「親米反共」主義者であったにもかかわらず、西武沿線の風景は、限りなくモスクワに近づいていった。確かに、著者が撮影したモスクワの集合住宅の写真を見ると、キャプションがなかったら、見慣れた日本の団地風景にしか見えない。

 さらに、団地周辺の不十分な社会インフラは、入居者の問題意識、政治意識を目覚めさせた。活動の中心となったのは主婦であった。また、この頃、多くの共産党員や共産党支持者が、西武沿線の団地に入居している。

 1968年、滝山団地の分譲が始まり、著者の一家も69年に移り住む。久留米町(当時)の町長は、団地の代名詞ともなったひばりが丘が全戸賃貸であったため、住民意識が育たないこと、共産党の地盤になりやすいことを案じて、分譲タイプの団地を希望した。しかし、滝山団地の自治会は、事実上共産党によってつくられた、と著者は指摘している。彼らが、ひばりが丘団地自治会から継承した問題意識は、西武鉄道の通勤ラッシュに対する無策・放置だった。

 にもかかわらず、西武はラッシュ緩和よりも観光開発を優先した。69年、秩父線が開通し、特急レッドアロー号が走り始めた。団地自治会の反応は冷ややかだったが、西武のイメージを大きく変えることになる。これにはリアルタイムの記憶があって、70年代はじめ、東京下町の私の一家は秩父に一泊旅行に出かけた。たぶん(高級感のある)レッドアロー号が走っていなかったら、わざわざ出かけなかっただろうと思う。

 著者がレッドアロー号の開通をもって、主な記述を留めているのは、1970年が戦後史の転換点とみなされているためだろう。あとは駆け足で、70年代以降、より大規模な「ニュータウン」の時代に入っていくこと、80~90年代には、団地住民の高齢化と人口減少が進み、一戸建て主体の開発を進めてきた東急沿線の「成功」との対照が際立つようになったことが語られる。

 このように、西武沿線、中央線沿線、東急沿線では、鉄道インフラの性格の違いが、沿線住民の生活を規定し、それぞれ異なる政治意識を生み出す母体となった。それゆえ著者は「戦後思想史を一国レベルで語ることの危うさ」を指摘する。ナショナル・ヒストリーの克服には、海域アジアのような、より大きなエリアで人・物の流れを考える方法もあるが、本書のようにローカリティにこだわるのも、ひとつの方法であると思う。
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