○内田樹『呪いの時代』 新潮社 2011.11
「この本の中で私は別に目新しい知見を語っているわけではない」というのは、著者の「あとがき」の一文である。「あいつはダメだ」「こいつはくだらない」という嫉妬や憎悪、呪詛の言葉は何も作り出さない。だから、私たちの意識を、呪詛から祝福へ、壊すことから創り出すことへ、排除することから受け入れることへシフトさせよう、と著者は語りかける。
実際、何も新しくない。これまでの著作で、著者は何度も同じことを語っている。でも何度でも同じ言葉が聞きたくて、私は内田さんの本を読む。そして、内田さんの本がそれなりに売れていることに、まだ日本の社会に絶望しなくてもよさそうだ、という希望を感じるのである。
著者の主張は、長い年月、人々が語り伝えてきた智慧に根ざしている。だから著者は、しばしば古典を引用する。たとえば、能(謡曲)の『鉢の木』。主人公の佐野源左衛門は、社会的なアンフェアによって全財産を失っている。しかし「こんな社会システムである限り、自分は浮かばれない」と呪うのでなく、どんなアンフェアな社会でも「局所的にフェアネスは生き延びている」ことを信じ、不遇と極貧の中でも身銭を切って他者を歓待し、幕府への忠誠心を失わなかった、そのことによって、社会的なフェアネスは息を吹き返した、と著者はこの物語を読む。いいなーこの解釈。本書の後半に出てくる能『安宅』の解釈も好きだ。古典を読むことの本義は、自然とこういう智慧を身につけることではないかと思う。
私が本書でいちばん心に残ったのは、他人に届く言葉の発しかたである。冒頭で著者は「情理を尽くして語る」という成語を引用する。懐かしいなあ、この表現自体、耳にしなくなって久しいような気がする。人が冷静に、相手の立場を気遣いながら、妥協点を手探りするディベートを一度も「生で」見たことがない子どもは、この言葉の意味が分からないだろう。それは彼らの罪ではない。確かに、それは先行世代の責任だ。
別の箇所では「リーダビリティ(readability)」という術語が用いられている。リーダビリティを構成する条件は、表現者の受信者に対する敬意である。しかもパーソナルな敬意こそ最強だ。人はどれほど分かりにくいメッセージであっても、そこに込められた「自分に対する敬意」だけは見落とさず、必死に耳を傾けようとする。このことを著者は、旧約聖書にのっとって、ユダヤ=キリスト教の太古の智慧から証明しようとする。また中学生や高校生が太宰治を耽読する理由も、この読み手の知力に対する敬意、それゆえ生まれる「切迫感」にあるという。
いまの社会は、いかに鮮やかに相手を叩きのめすかを競い合う「呪い」が蔓延する一方で、そうした現実の裏返しなのか、学校でも企業でも、コミュニケーション能力を人材条件とするところが多い。しかし、そこで期待されるコミュニケーション能力とは、受け手のレベルに合わせて、読みやすい、分かり易い情報を発信することであって、「敬意」の有無まで掘り下げた議論は、たぶん、ほとんど聞いたことがない。
本当にその人の知的な枠組みを根底から作り替えようと望むのなら、その人の知性を信頼するしかない、というのは、美しくて重い言葉である。それが常識に登録されるまで「僕は執拗に語り続けるつもりです」という著者の覚悟も重い。私はそこまで他人への信頼を持ち続け、発話し続ける自信がないが、せめて無駄な物言いをつつしみたいと思った。
また、全然論点の異なる話題だが、日本人の英語が一向にうまくならないのは、心の底に「攘夷」マインドが生きているためではないかという指摘も非常に面白かった。個人的には納得できる。でも、あと一世代くらいで、いよいよ劇的に変わるかもしれない、という予感もしている。

実際、何も新しくない。これまでの著作で、著者は何度も同じことを語っている。でも何度でも同じ言葉が聞きたくて、私は内田さんの本を読む。そして、内田さんの本がそれなりに売れていることに、まだ日本の社会に絶望しなくてもよさそうだ、という希望を感じるのである。
著者の主張は、長い年月、人々が語り伝えてきた智慧に根ざしている。だから著者は、しばしば古典を引用する。たとえば、能(謡曲)の『鉢の木』。主人公の佐野源左衛門は、社会的なアンフェアによって全財産を失っている。しかし「こんな社会システムである限り、自分は浮かばれない」と呪うのでなく、どんなアンフェアな社会でも「局所的にフェアネスは生き延びている」ことを信じ、不遇と極貧の中でも身銭を切って他者を歓待し、幕府への忠誠心を失わなかった、そのことによって、社会的なフェアネスは息を吹き返した、と著者はこの物語を読む。いいなーこの解釈。本書の後半に出てくる能『安宅』の解釈も好きだ。古典を読むことの本義は、自然とこういう智慧を身につけることではないかと思う。
私が本書でいちばん心に残ったのは、他人に届く言葉の発しかたである。冒頭で著者は「情理を尽くして語る」という成語を引用する。懐かしいなあ、この表現自体、耳にしなくなって久しいような気がする。人が冷静に、相手の立場を気遣いながら、妥協点を手探りするディベートを一度も「生で」見たことがない子どもは、この言葉の意味が分からないだろう。それは彼らの罪ではない。確かに、それは先行世代の責任だ。
別の箇所では「リーダビリティ(readability)」という術語が用いられている。リーダビリティを構成する条件は、表現者の受信者に対する敬意である。しかもパーソナルな敬意こそ最強だ。人はどれほど分かりにくいメッセージであっても、そこに込められた「自分に対する敬意」だけは見落とさず、必死に耳を傾けようとする。このことを著者は、旧約聖書にのっとって、ユダヤ=キリスト教の太古の智慧から証明しようとする。また中学生や高校生が太宰治を耽読する理由も、この読み手の知力に対する敬意、それゆえ生まれる「切迫感」にあるという。
いまの社会は、いかに鮮やかに相手を叩きのめすかを競い合う「呪い」が蔓延する一方で、そうした現実の裏返しなのか、学校でも企業でも、コミュニケーション能力を人材条件とするところが多い。しかし、そこで期待されるコミュニケーション能力とは、受け手のレベルに合わせて、読みやすい、分かり易い情報を発信することであって、「敬意」の有無まで掘り下げた議論は、たぶん、ほとんど聞いたことがない。
本当にその人の知的な枠組みを根底から作り替えようと望むのなら、その人の知性を信頼するしかない、というのは、美しくて重い言葉である。それが常識に登録されるまで「僕は執拗に語り続けるつもりです」という著者の覚悟も重い。私はそこまで他人への信頼を持ち続け、発話し続ける自信がないが、せめて無駄な物言いをつつしみたいと思った。
また、全然論点の異なる話題だが、日本人の英語が一向にうまくならないのは、心の底に「攘夷」マインドが生きているためではないかという指摘も非常に面白かった。個人的には納得できる。でも、あと一世代くらいで、いよいよ劇的に変わるかもしれない、という予感もしている。