見もの・読みもの日記

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出家者たち/終わらないオウム(上祐史浩、鈴木邦男、徐裕行)

2013-07-03 23:53:51 | 読んだもの(書籍)
○上祐史浩、鈴木邦男、徐裕行著『終わらないオウム』 鹿砦社 2013.6

 これも、6月11日の鈴木邦男シンポジウムで言及された本。鈴木氏が、元オウム真理教幹部の上祐史浩氏と、村井秀夫氏を刺殺した徐裕行氏とで鼎談したんですよ、と語り始めたときは、はあ?と自分の耳を疑った。それから、怒濤のように「あの頃」の記憶がよみがえってきた。

 1995年3月の地下鉄サリン事件。上九一色村の教団本部強制調査。麻原彰晃(松本智津夫)の発見と逮捕。ハルマゲドンとグルとかサティアンとか、およそ現実離れしたマンガかアニメのような単語がマスコミを飛び交い、テレビにはオウムの幹部たちと、教団の犯罪を追及する弁護士たちが連日連夜登場して、日本中が一種の「祭り(非日常)」状態だった。中でも最も注目を浴びたのが、「ああいえば上祐」と揶揄された教団のスポークスマン・上祐史浩氏だったことは、私の記憶にあたらしい。ちょっとイケメンだったし。

 徐裕行氏は、その「非日常」的な狂躁の裏側から(つまりあるべき「日常」の側から)突如現れて、南青山の教団総本部前で、オウム幹部の一人村井秀夫氏を刺殺し、その場で逮捕された。背後関係について、さまざまな憶測が乱れ飛んだが、結局、徐氏の単独犯行と定まると、マスコミも大衆も事件から興味を失ったように思う。その後、徐氏の裁判の行方について、私は聞いた記憶がない。旭川刑務所で12年間の服役生活を送り、2007年に満期出所したことを本書で初めて知った。

 徐氏は、殺害の対象について、上祐史浩、青山吉伸、村井秀夫の「誰でもよかった」と語っている。「でも本当に殺したかったのは上祐さんだった」とも。本書は「殺そうとした人間」と「殺されていたかもしれない人間」による奇蹟の対談である、と鈴木氏はいう。

 本書は、鈴木氏による解説のあと、2013年3月1日に行われた7時間にわたる鼎談が、2-3章に編集・採録されている。4-5章には、これに1ヶ月ほど先立って行われた鈴木邦男氏と上祐氏の対談、さらに上祐氏の寄稿と、田原総一朗氏の解説を加える。なお、鈴木邦男氏は、2010年頃から上祐氏とは何度か対談しており、2011年には『週刊金曜日』で徐氏とも対談したことが、第1章に記されている。私は、「殺そうとした人間」とも「殺されていたかもしれない人間」とも対話を成立させることのできる、鈴木邦男氏の包容力こそ奇蹟ではないかと思って唸った。

 鈴木氏は徐裕行氏のたたずまいについて、テロリストというより始皇帝を暗殺しようとした「刺客」荊軻のような気がした、と語っている。いいな。短い比喩で、全てが分かる気がする。18年前、全く個人的な正義感から、オウム真理教幹部の誰かを刺殺しようと決め、行動に及んだときから、この人は何も変わらず、一切ぶれていないのだろう。

 それに対して、私が何よりも衝撃を受けたのは、上祐史浩氏の変貌ぶりである(いい意味での)。駄々っ子のような詭弁と饒舌はどこかに消えた。現在は事件を真摯に反省し、その責任を最後まで負う覚悟を決めており、鈴木邦男氏も「まるで別人のよう」と語っている。しかし、オウムを完全脱却しても、宗教者として生きる新たな道を探し続けているのは、ある意味「ぶれない」姿勢と言える。そして、自分の未熟さを率直に認めつつ、「オウム事件」というショーに踊ったマスコミの「共犯」ぶりや、カルト宗教を否定して、社会全体がカルト化してしまった日本の危うさを語る分析は深く、冷静である。私は上祐氏と同世代であるだけに感銘深かった。どれだけ他人より遅れても、これだけ懐の深い、覚悟の座った大人になれるならいいじゃないかと思った。上祐氏については、引き続き、注目し続けたい。
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