見もの・読みもの日記

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復古に非ず、反動に非ず/「リベラル保守」宣言(中島岳志)

2013-07-07 23:58:57 | 読んだもの(書籍)
○中島岳志『「リベラル保守」宣言』 新潮社 2013.6

 6月11日の鈴木邦男シンポジウムに関連する本の3冊目。というか、あのシンポジウムで中島岳志さんが語られたことが、だいたい文章になっていると思った。あのときは「右翼とは何か」がテーマで、その対比として「保守」を出していらしたのに対し、本書は「保守とは何か」に重点が置かれていることが、若干違うと言えば違うけれど。

 本書の半分ほどを占める序章~第1章は、いわば「リベラル」保守総説。保守の立場に立つ者は「人間の理性によって理想社会を作ること」を根本から疑う。したがって、特定の人間によって構想された政治イデオロギーや「ポリティカル・エンジニアリング」の過信、そこから生まれる急進的な改革、設計主義、多数者の専制に与しない。それよりも経験知や暗黙知を尊重し、対話による合意形成と漸進的な改革を支持する。

 著者は、一見「保守」に似て非なるものを注意深く削ぎ落としていく。保守は「復古」でも「反動」でもない。人間は、過去においても、現在においても、未来においても不完全なのだから、過去の一点に帰ればうまくいくという「復古」の立場も、現在の制度を絶対に変えてはならないという「反動」の立場も取らない。ああ、その通りだ。そして「保守思想の神髄」として、アメリカの神学者ラインホールド・ニーバーの祈りの言葉を引く。「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を与えたまえ」で始まる、とても素敵な章句だ。私は、堀田善衛氏の『天上大風』で読んだ「凡て汝の手に堪(たふ)ることは力をつくしてこれを為せ」という旧約聖書の言葉を思い出した。

 あと著者の言葉では「多一論」と呼ぶらしいが、真理の唯一性とともに、真理に至る道の複数性を認める態度。「私の追究している真理とあなたの追究している真理は別」という相対主義からは、真の寛容は生まれない。多様な文化と文明の存在にもかかわらず、究極のメタレベルに万人が承諾する真理が存在する、というのが、真正のリベラリストの信条でなければならない。私は、C.S.ルイスの「ナルニア国物語」を思い出した。あの最終巻(中学生には難しかった)もそんなことをテーマにしていなかっただろうか。

 それから、ずいぶん前に読んだ本になるのだが、著者と姜尚中氏の対談『日本:根拠地からの問い』(2008)をあらためて思い出したので、ここに引いておこう。私が「保守?」ということを考え始めたのは、この頃から。

 本書は、総説の序章~第1章がけっこう長くて、第2章以下は「原発」「日本維新の会」「貧困」などの個別テーマを取り扱う。つねに重視されていることは、人間は、具体的なトポス(場所)において、父母や同僚などの関係性の中で生きる存在であるということだ。

 なお「あとがき」には、第3章「橋下徹・日本維新の会への懐疑」の章について、当初、出版を予定していたNTT出版の編集者から「手を入れてほしい」との要請を受け、さらには「第3章をすべて削除し、他の本文中の橋下批判も削除・書き換えの方向で検討してほしい」と要望されたこと、それを断ったことにより、出版社が変更になった経緯が述べられている。第3章は、別に誹謗でも揶揄でもなく、至極まっとうな「懐疑」の表明なのにね。どうしたんだ、NTT出版。
コメント
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