○沢野ひとし『北京食堂の夕暮れ』 本の雑誌社 2014.3
著者の沢野ひとしさんは、私より半世代(15年)くらい年上のはずである。私が学生だった1980年代前半、「本の雑誌」のイラストや椎名誠エッセイの登場人物として、親しくお名前に接していた。
あれから30年近く経って、久しぶりに書店で沢野さんの著書と巡り合った。「北京食堂の夕暮れ」? オビには「中国路地裏歩き」とある。巻頭のカラーページには水彩画(むしろ彩色墨画)タッチで北京の街角や生活風景を描いたイラスト。いつの間に、沢野さん、中国に関心を向けるようになられたのか、と訝りながら読み始めた。
私の不審を打ち砕いたのが、まえがきに当たる「中国へ行こう」の短章である。高校時代、漢文の時間が苦痛でならなかった沢野少年は、図書館で借りた本に「楓橋夜泊」の漢詩を見つけ、意味も分からず心惹かれて手帳に書き写した。しかし「楓橋夜泊」という漢字すら、どう読んでいいのか分からない。そこで書店に行って、漢詩の易しい入門書を探していた。
「漢詩、漢詩」とつぶやきながら入門書を探していると「漢詩はいい、奥が深い」という野太い声がして、父親くらいの世代の和服の紳士が立っていた。著者が手帳の漢詩を見せると、紳士は読み方と意味を教えてくれて、ミルクホール風の喫茶店で紅茶とサンドイッチをご馳走になった。何を話していいか分からず、戸惑う高校生の著者を相手に、紳士はビールを飲みながら「中国は魅力ある大陸(ダール)だよ」とつぶやく。
…つくられたドラマのようなエピソードであるが、たぶん1960年代には、まだこういう異世代の出会いがあってもおかしくなかった、と思う。特に書店や図書館は、本を介した出会いの場だった。いま、書店や図書館が交流の「場」づくりに積極的になっているけど、もともと、その下地はあったのだと思う。
そして、1960年代から70年代には、同時代の中国の混乱にもかかわらず「中国は魅力ある大陸だよ」とつぶやく大人がまだ市井のあちこちにいた。私もそうした前世代に影響された一人である。私の場合は発症が早くて、学生時代から中国の歴史や文化に一定の関心を持ち続けてきたが、著者のように、中国と何らかかわりのない潜伏期間を経て、中高年以降に関心が表面化するケースもあるのだな、と感慨深く思った。いま、嫌韓、嫌中の文脈でしか隣国を見られない若者の行末はどうなるのだろう、と案じられる。
あとがき「もう一度、北京へ行こう」によると、著者が中国、とりわけ北京に行き始めたのは、2010年秋、中国漁船が日本の巡視船に衝突し、中国各地で反日デモが起こり、日本から中国への旅行者が激減した頃で「ひねくれ者だからか、逆にこういう時こそ中国へ行こうと」中国に通い始めたという。もはや西安、洛陽、開封なども訪問済みらしい。そのあたりは別著があるのだろうか?
本書の著者は「何度目かの北京を訪れた」というように、かなり北京および中国事情に通じた旅行者として登場する。北京には顔なじみの友達(日本で暮らしたことのある中国人チェリスト)もいる。ただし、妙に中国通ぶった「裏事情」の話題はない。本書の中で著者が訪れる先は、天壇公園、紫禁城、長城などの有名観光地である。けれども、天壇公園といえば写真うつりのよい祈年殿よりも空白の聖地・圜丘壇(かんきゅうだん)で、著者はここで、早朝「三跪九拝」の祈りを捧げてみたという。スタンダードな観光ガイドからは完全にはみ出した、自由な中国の楽しみ方が語られている。ゆっくり深く楽しむ大人の海外旅行はこうでないと。
著者いわく「私が中国に惹かれるのは、あの大雑把でおおらかで、時にいいかげんなところである」。これは100パーセント同意。たぶん「時にいいかげん」を気持ちよいと感ずるタイプは、本質的に中国文明との相性がいい。それから「中国の老人は生きることを最大限に楽しんでいる」というのも同意で、高齢化の進行という点では、日本も中国も同じ問題を共有しているのだが、深刻度は日本のほうが高い気がする。生活の豊かさの水準と、生活を楽しめるかどうかの水準は別物であるから。
イラストレーターを本業とする著者らしく、毛沢東の片腕であった康生の書作品や、中国の春宮画(日本でいう春画)に関する段も興味深かった。台湾紀行もあり。それから、私の好きな大室幹雄の中国史シリーズ『劇場都市』『桃源の夢想』『園林都市』に言及があったのも嬉しかった。現在は入手が容易でない本だが、読み継がれてほしいと思っている。
著者の沢野ひとしさんは、私より半世代(15年)くらい年上のはずである。私が学生だった1980年代前半、「本の雑誌」のイラストや椎名誠エッセイの登場人物として、親しくお名前に接していた。
あれから30年近く経って、久しぶりに書店で沢野さんの著書と巡り合った。「北京食堂の夕暮れ」? オビには「中国路地裏歩き」とある。巻頭のカラーページには水彩画(むしろ彩色墨画)タッチで北京の街角や生活風景を描いたイラスト。いつの間に、沢野さん、中国に関心を向けるようになられたのか、と訝りながら読み始めた。
私の不審を打ち砕いたのが、まえがきに当たる「中国へ行こう」の短章である。高校時代、漢文の時間が苦痛でならなかった沢野少年は、図書館で借りた本に「楓橋夜泊」の漢詩を見つけ、意味も分からず心惹かれて手帳に書き写した。しかし「楓橋夜泊」という漢字すら、どう読んでいいのか分からない。そこで書店に行って、漢詩の易しい入門書を探していた。
「漢詩、漢詩」とつぶやきながら入門書を探していると「漢詩はいい、奥が深い」という野太い声がして、父親くらいの世代の和服の紳士が立っていた。著者が手帳の漢詩を見せると、紳士は読み方と意味を教えてくれて、ミルクホール風の喫茶店で紅茶とサンドイッチをご馳走になった。何を話していいか分からず、戸惑う高校生の著者を相手に、紳士はビールを飲みながら「中国は魅力ある大陸(ダール)だよ」とつぶやく。
…つくられたドラマのようなエピソードであるが、たぶん1960年代には、まだこういう異世代の出会いがあってもおかしくなかった、と思う。特に書店や図書館は、本を介した出会いの場だった。いま、書店や図書館が交流の「場」づくりに積極的になっているけど、もともと、その下地はあったのだと思う。
そして、1960年代から70年代には、同時代の中国の混乱にもかかわらず「中国は魅力ある大陸だよ」とつぶやく大人がまだ市井のあちこちにいた。私もそうした前世代に影響された一人である。私の場合は発症が早くて、学生時代から中国の歴史や文化に一定の関心を持ち続けてきたが、著者のように、中国と何らかかわりのない潜伏期間を経て、中高年以降に関心が表面化するケースもあるのだな、と感慨深く思った。いま、嫌韓、嫌中の文脈でしか隣国を見られない若者の行末はどうなるのだろう、と案じられる。
あとがき「もう一度、北京へ行こう」によると、著者が中国、とりわけ北京に行き始めたのは、2010年秋、中国漁船が日本の巡視船に衝突し、中国各地で反日デモが起こり、日本から中国への旅行者が激減した頃で「ひねくれ者だからか、逆にこういう時こそ中国へ行こうと」中国に通い始めたという。もはや西安、洛陽、開封なども訪問済みらしい。そのあたりは別著があるのだろうか?
本書の著者は「何度目かの北京を訪れた」というように、かなり北京および中国事情に通じた旅行者として登場する。北京には顔なじみの友達(日本で暮らしたことのある中国人チェリスト)もいる。ただし、妙に中国通ぶった「裏事情」の話題はない。本書の中で著者が訪れる先は、天壇公園、紫禁城、長城などの有名観光地である。けれども、天壇公園といえば写真うつりのよい祈年殿よりも空白の聖地・圜丘壇(かんきゅうだん)で、著者はここで、早朝「三跪九拝」の祈りを捧げてみたという。スタンダードな観光ガイドからは完全にはみ出した、自由な中国の楽しみ方が語られている。ゆっくり深く楽しむ大人の海外旅行はこうでないと。
著者いわく「私が中国に惹かれるのは、あの大雑把でおおらかで、時にいいかげんなところである」。これは100パーセント同意。たぶん「時にいいかげん」を気持ちよいと感ずるタイプは、本質的に中国文明との相性がいい。それから「中国の老人は生きることを最大限に楽しんでいる」というのも同意で、高齢化の進行という点では、日本も中国も同じ問題を共有しているのだが、深刻度は日本のほうが高い気がする。生活の豊かさの水準と、生活を楽しめるかどうかの水準は別物であるから。
イラストレーターを本業とする著者らしく、毛沢東の片腕であった康生の書作品や、中国の春宮画(日本でいう春画)に関する段も興味深かった。台湾紀行もあり。それから、私の好きな大室幹雄の中国史シリーズ『劇場都市』『桃源の夢想』『園林都市』に言及があったのも嬉しかった。現在は入手が容易でない本だが、読み継がれてほしいと思っている。