○寺田寅彦『天災と国防』(講談社学術文庫) 講談社 2011.6
引き続き、明治人の著作を読む。「天災」と「国防」は、どちらも2014年現在の日本にとって、大きな課題である。「天災」は、2011年の東日本大震災と福島原発事故が解明も解決もしておらず、日に日に混迷を深めているように見えるし、「国防」については、解釈改憲による自衛隊のあり方の変更が(実現してほしくないが)焦眉の急として迫っている。
本書は、寺田寅彦(1878-1935)の著作から、災害に関するものを集めて再構成している。冒頭の一編が「天災と国防」と題した昭和9年(1934)11月発表のエッセイ。昭和9年といえば、前年に日本軍(関東軍)の熱河省侵攻、国際連盟からの脱退があり、「非常時」が合言葉になった年だ。その同じ年に、函館の大火(1934年3月)や室戸台風(同9月)などの激甚災害が日本の国土を襲っていたことは、あまり認識になかった。
著者は、われわれが忘れがちな重大な要項として「文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその激烈の度を増す」という事実を指摘する。なぜなら、文明が進むに従って人間は自然を征服しようという野心を起こす。文明の力を買い被って、過去の経験を大切にしない。人間社会が複雑化したため、その一部が損傷を蒙ると、全体に有害な影響を及ぼす。ああ、いちいちその通りだ。
怖いのは、今度の風害(室戸台風)が「いわゆる非常時」の最後の危難の出現と時を同じゅうしなかったのは何よりのしあわせであった、と著者が書いていること。この狭い国土に、戦争と天災が同時に襲ってきたら、その結果は「想像するだけでも恐ろしいこと」だ。21世紀の今日にも、絶対に引き起こしてはならない事態だと思う。
「砲弾弾雨の中に身命を賭して敵の陣営に突撃するのもたしかに貴い日本魂(やまとだましい)であるが(略)天然の強敵に対して平生から国民一致協力して適当な科学的対策を講ずるにもまた現代にふさわしい大和魂の進化の一相」であり、「二十世紀の科学的文明国民の愛国心の発露にはもう少しちがった、もう少し合理的な様式があってしかるべきではないか」と著者は述べる。科学的「防災」の心構えを推奨すると同時に、浮足立って、合理性のない戦争に突入しようとする世間に厳しい「否」を突き付けている。表面は冷静だが、科学者の凄みが感じられる文章だ。
「災難雑考」は、災難事故の原因究明について。多くの場合、責任者に対するとがめ立て、責任者の弁明ないしは引責だけで、その問題が落着した気になってしまうのは、今も昔も変わりないようだ。この通例に反して、しっかりした事故原因の解明がなされた例として、旅客機「白鳩号」の事故調査が上がっている。Y教授というのは岩本周平らしい。
著者が実際に天災に遭遇した記録も採録されている。昭和10年(1935)7月の静岡地震では、わざわざ東京を急行で経ち、被害の様子を見に行っているのに驚いた。同年8月には、軽井沢に滞在中、浅間山の噴火に遭遇する。そして「震災日記より」は、大正12年(1923)8月24日から始まり、9月1日の関東大震災を経て、9月3日までの日記。9月1日、上野二科展を見て、喫茶店で紅茶を飲んでいるとき、地震が起きる。足の裏に感じた振動、建築の揺れ具合が、詳細に描写されている。すごいな。科学者って、自分の周囲の諸現象を、いつもこんなふうに観察しているものなのか。夕方、大学の様子を見にいくと「図書館の書庫の中の燃えている様が窓外からよく見えた。一晩中くらいはかかって燃えそうに見えた」という。そんなにひどい火災でありながら「あたりには人影もなくただ野良犬が一匹そこいらにうろうろしていた」というのが、何かシュルレアリスムの絵画のように思い浮かんだ。
たぶん関東大震災の経験を踏まえてのことだと思うが、「流言蜚語」という一編には、大地震、大火事の際に「暴徒が起って東京中の井戸に毒薬を投じ、主要な建物に爆弾を投じつつあるという流言が放たれたとする」という仮定に基づく一段がある。科学的常識に基づき、概念的な推算をしてみれば、地震の発生にあわせてそんな準備をしておける可能性が著しく低いことは想像がつく。活きた科学を身につけているかどうかは、事に臨んで現れるものだ。
結局、「科学」というのは、ノーベル賞を取るような大学者だけに関係する事項ではなく、市井に生きる一人ひとりが身につけなければいけない教養なのだな、ということを本書を読みながら強く感じた。そして、天変地異の多いこの国土に住む国民として、過去の経験に学び、流言に惑わされず、科学的態度をもって、防災の調査研究と応用・普及にあたる者こそ「愛国」精神の発露と呼ぶにふさわしい。科学の背骨のない盲目的な熱狂は、愛国でも何でもないのだ。
引き続き、明治人の著作を読む。「天災」と「国防」は、どちらも2014年現在の日本にとって、大きな課題である。「天災」は、2011年の東日本大震災と福島原発事故が解明も解決もしておらず、日に日に混迷を深めているように見えるし、「国防」については、解釈改憲による自衛隊のあり方の変更が(実現してほしくないが)焦眉の急として迫っている。
本書は、寺田寅彦(1878-1935)の著作から、災害に関するものを集めて再構成している。冒頭の一編が「天災と国防」と題した昭和9年(1934)11月発表のエッセイ。昭和9年といえば、前年に日本軍(関東軍)の熱河省侵攻、国際連盟からの脱退があり、「非常時」が合言葉になった年だ。その同じ年に、函館の大火(1934年3月)や室戸台風(同9月)などの激甚災害が日本の国土を襲っていたことは、あまり認識になかった。
著者は、われわれが忘れがちな重大な要項として「文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその激烈の度を増す」という事実を指摘する。なぜなら、文明が進むに従って人間は自然を征服しようという野心を起こす。文明の力を買い被って、過去の経験を大切にしない。人間社会が複雑化したため、その一部が損傷を蒙ると、全体に有害な影響を及ぼす。ああ、いちいちその通りだ。
怖いのは、今度の風害(室戸台風)が「いわゆる非常時」の最後の危難の出現と時を同じゅうしなかったのは何よりのしあわせであった、と著者が書いていること。この狭い国土に、戦争と天災が同時に襲ってきたら、その結果は「想像するだけでも恐ろしいこと」だ。21世紀の今日にも、絶対に引き起こしてはならない事態だと思う。
「砲弾弾雨の中に身命を賭して敵の陣営に突撃するのもたしかに貴い日本魂(やまとだましい)であるが(略)天然の強敵に対して平生から国民一致協力して適当な科学的対策を講ずるにもまた現代にふさわしい大和魂の進化の一相」であり、「二十世紀の科学的文明国民の愛国心の発露にはもう少しちがった、もう少し合理的な様式があってしかるべきではないか」と著者は述べる。科学的「防災」の心構えを推奨すると同時に、浮足立って、合理性のない戦争に突入しようとする世間に厳しい「否」を突き付けている。表面は冷静だが、科学者の凄みが感じられる文章だ。
「災難雑考」は、災難事故の原因究明について。多くの場合、責任者に対するとがめ立て、責任者の弁明ないしは引責だけで、その問題が落着した気になってしまうのは、今も昔も変わりないようだ。この通例に反して、しっかりした事故原因の解明がなされた例として、旅客機「白鳩号」の事故調査が上がっている。Y教授というのは岩本周平らしい。
著者が実際に天災に遭遇した記録も採録されている。昭和10年(1935)7月の静岡地震では、わざわざ東京を急行で経ち、被害の様子を見に行っているのに驚いた。同年8月には、軽井沢に滞在中、浅間山の噴火に遭遇する。そして「震災日記より」は、大正12年(1923)8月24日から始まり、9月1日の関東大震災を経て、9月3日までの日記。9月1日、上野二科展を見て、喫茶店で紅茶を飲んでいるとき、地震が起きる。足の裏に感じた振動、建築の揺れ具合が、詳細に描写されている。すごいな。科学者って、自分の周囲の諸現象を、いつもこんなふうに観察しているものなのか。夕方、大学の様子を見にいくと「図書館の書庫の中の燃えている様が窓外からよく見えた。一晩中くらいはかかって燃えそうに見えた」という。そんなにひどい火災でありながら「あたりには人影もなくただ野良犬が一匹そこいらにうろうろしていた」というのが、何かシュルレアリスムの絵画のように思い浮かんだ。
たぶん関東大震災の経験を踏まえてのことだと思うが、「流言蜚語」という一編には、大地震、大火事の際に「暴徒が起って東京中の井戸に毒薬を投じ、主要な建物に爆弾を投じつつあるという流言が放たれたとする」という仮定に基づく一段がある。科学的常識に基づき、概念的な推算をしてみれば、地震の発生にあわせてそんな準備をしておける可能性が著しく低いことは想像がつく。活きた科学を身につけているかどうかは、事に臨んで現れるものだ。
結局、「科学」というのは、ノーベル賞を取るような大学者だけに関係する事項ではなく、市井に生きる一人ひとりが身につけなければいけない教養なのだな、ということを本書を読みながら強く感じた。そして、天変地異の多いこの国土に住む国民として、過去の経験に学び、流言に惑わされず、科学的態度をもって、防災の調査研究と応用・普及にあたる者こそ「愛国」精神の発露と呼ぶにふさわしい。科学の背骨のない盲目的な熱狂は、愛国でも何でもないのだ。