見もの・読みもの日記

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林家三代の復権/江戸幕府と儒学者(揖斐高)

2014-08-13 12:27:25 | 読んだもの(書籍)
○揖斐高『江戸幕府と儒学者:林羅山・鵞峰・鳳岡三代の闘い』(中公新書) 中央公論新社 2014.6

 歴史上、著名ではあるが、全く関心を持たれない人物というのがいる。林羅山もそのひとりだろう。徳川将軍家に仕えた儒学者・林家の祖ということで、たぶん高校レベルの日本史では暗記必須の人名である。しかし、具体的に何を祖述したか、どんな人物だったかは、ほとんど問われることがない。私自身もそうだったが、今年2月、国立公文書館の企画展『江戸幕府を支えた知の巨人-林羅山の愛読した漢籍-』を見る機会があって、はじめて「羅山」という名前に、血の通ったイメージを持つことができた。思っていたよりも苦労の多い、懐の深い「愛すべき大学者」であることが分かったので、先ごろ本書を見つけて、読んでみたくなった。

 林羅山(1583-1657)は京都四条新町の生まれ。おお、祇園祭の「船鉾」が立つ通りである。本書は、羅山と言えば最もよく知られた「方広寺鐘銘事件」(1614)を最初に取り上げ、検証する。鐘銘問題を家康に入れ知恵をしたのは、天海か崇伝あたりで(徳富蘇峰の説)、当時32歳の羅山の関与は限定的なものであった。確かに羅山にとって重要なことは、幕藩体制に寄り添って、儒学(朱子学)を世間に広めることであり、その実現のためには、理論的整合性より現実との妥協を優先することもあった。しかし、これを現実主義者と呼ぶか理想主義者と呼ぶかは措くとしても、「曲学阿世」という批判は当たらないだろう。

 羅山が「公」と「私」を使い分けていた一例として示されているのが「太伯皇祖論」という歴史認識である。これは、周の文王の伯父の太伯が日本に渡来して、天皇家の先祖となったというもの(いま、こんなことを主張したら大炎上だろうな)。羅山は「(儒教の理想である)王道一変して神道に至る」という視点から「理当心地神道」を提唱し、若狭小浜藩主の酒井忠勝に著書を授け、「神儒一致」の具体的な証拠を整備しようとして『本朝神社考』を編纂している。おもしろいなー。しかし、羅山から息子の鵞峰に引き継がれ、編纂された歴史書『本朝通鑑』は、太伯皇祖論を採用していない。幕府の公式見解が異なるからだ。公務の歴史書編纂は「公(幕府)」の見解に追随し、「私(林家)」の歴史観は私の歴史観、という冷静な判断だろう。ある意味、21世紀の日本の議員や政治家より、よほど大人である。

 羅山が、詩文大好き・怪力乱神大好きな、幅広い読書家であったことは、国立公文書館の企画展からもうかがえたが、さらに本朝(日本)の文学にも強い関心を抱いていたことは、初めて認識した。交友範囲の中に、俳人であり歌人(歌学者)である松永貞徳の名前がサラリと登場するので、えっ?と驚いたが、かなり親しいつきあいがあったようだ。そして「倭学(日本古典学)」は、林家塾の重要な教育カリキュラムでもある。これは新鮮な発見だった。

 二代目・林鵞峰(がほう、1618-1680)は羅山の三男。羅山の死によって中断した『本朝編年録』の編纂を引き継ぎ、『本朝通鑑』として完成させる。編纂作業のために幕府から措置された国史館の施設と人員・月俸は、そのまま林家塾が使用することを許された。本書に詳しく紹介されている林家塾の教育システムは、非常に整ったもので、スペシャリストとジェネラリストの養成が配慮されていたり、教員のオフィス・アワーがあったりする。そして、繰り返していうが、幕府の儒官である林家塾で「倭学(和学)」が講じられていたというのは、これまで私に見えなかった事実であった。

 鵞峰は「一能子伝」という自伝的な文章(托伝=架空の人物に托した自伝)を残している。これがよい。実によい。本書を読むまで、羅山以上に何も知らなかった鵞峰という人物に、私は強い愛着を感じるようになった。と思ったら、本書の著者も「あとがき」で、鵞峰の「一能子伝」論を書いたことで「私のなかの林家の人物にようやく血が通い始めた」と告白している。分かる分かる。

 鵞峰先生曰く、二十余年も儒書を講読してきたが、将軍から「侍読の召し」があったこともなく、歴史を研究して歴代の事蹟に通じていても「鑑戒の問ひ」を受けたこともない。残念ながら「唯だ今古の事を知るを以て、時有りて徴され、事有りて問はる」程度の諮問にあずかるくらいが関の山だ。この、自分の潜在能力に対する強い自負と不遇意識。しかし、全く無駄に禄を食んでいるわけではない、なすべきことをなせばよい、という葛藤と自足。なんだか共感してしまい、全部原文で読みたくなった。

 三代目・林鳳岡(ほうこう、1645-1732)のとき、林家塾は湯島に移転し、蓄髪を命じられる(許される)。これ以前、幕府の職制には儒官としての職がなく、羅山も鵞峰も「僧侶」として徳川家に仕えてきたのだ。五代将軍・綱吉の信頼を得て、磐石の体制を整えたかに見えた林家であったが、六代・家宣は新井白石を重用し、林家不遇の時代が続く。八代・吉宗は、綱吉の時代を慕って、再び林家に期待を寄せるが、すでに林家の学問には凋落の兆しが見えていた。このへんの歴代将軍の確執と御用学者の浮沈関係も、生臭くて面白かった。

 最後に著者は「あとがき」で、伊藤仁斎や荻生徂徠の古文辞学が「相応に、あるいは過剰に」評価されているのを見るにつけても、江戸期朱子学と林家は再評価されるべきではないかと思ってきた、と述べている。私は、70年代の高校生の頃、古文辞学派を通じて、儒学の面白さに目を開かれた人間であるが、今後は文献の上で、林家の人々とも楽しくつきあっていけそうに思う。江戸の絵画が、奇想派だけのものではないとして、狩野派の再評価を説いている安村敏信先生のお仕事をちょっと思い出した。
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