8/17(日)網走駅前から、朝7時台のバスで常呂(ところ)へ。今回、網走から先は、もっぱら路線バスで移動する旅行だったが、どの町にも雨風除け(むしろ風雪除けか)のできる立派なバスターミナルがあり、たいがいは旧国鉄駅舎が利用されていた。常呂のバスターミナルもそのひとつ。ここでサロマ湖畔に向かうバスに乗り換え、サロマ湖栄浦バス停で下車(※なお、市町村合併で「常呂町」がなくなってしまったため、常呂バスターミナルは、現在、北見市交通ターミナルと呼ばれているが、道外の人間にはちょっと混乱を招く名称だと思う)。
駐車場の奥に「ところ遺跡の森」が広がる。午前9時からの「ところ遺跡の館」は、ちょうど開館したばかり。係員の方に勧められて、はじめに約9分のビデオ上映を中央ホールで見た後、円形施設の展示を見ていく。ここで、旧石器時代→縄文時代→続縄文時代→擦文時代/オホーツク文化→アイヌ文化という、北海道独特の時代・文化区分と、本州の時代区分との対応をはじめて理解する。東漸(北進)する弥生文化がついに到達しなかった結果、北海道には「続縄文」という独特の時代があること、縄文・続縄文時代が物質的にも精神文化的にも豊かな時代であったこと、同時代の擦文文化とは異なり、謎の多い「オホーツク文化」のこと、先住民と言われる「アイヌ」が意外と新しい文化であることなど、雪崩れのように新しい知識が入ってきて、面白かった。
周辺の森は遺跡公園となっており、縄文の村・続縄文の村・擦文の村と名付けて、各時代の住居跡が保存され、復元住居も建っている(かなり壊れていた)。アイヌのチャシ(砦)跡もある。森の中を歩いて、久しぶりに盛大に蚊に刺された。
少し離れて、東京大学文学部が所管する常呂資料陳列館(↓)と実習施設も建っている。陳列館は無人で、自分で照明をつけて参観する。「ところ遺跡の館」の中に「東京大学文学部常呂研究室」という表札のかかった部屋があったので、担当者はそちらに常駐しているのかもしれない。東大文学部が常呂とかかわりを持つことになる、そもそもの「縁起」も小説みたいで面白かった。
湖畔の食堂で少し早めの昼食。ホタテづくしが美味。タクシーを呼んで、計呂地(けろち)までサロマ湖畔ドライブ。計呂地のバスターミナル(交通公園)には、旧国鉄時代の駅舎と車両が残されていた。向かって右は、排雪板(ブレード)を装着したラッセル車。客車を利用した簡易宿泊施設も設けられていて、バイクや自転車で節約旅行をする旅行者に提供されている。
われわれは再び路線バスで中湧別に移動。中湧別バスターミナルは、今回訪ねた中でも印象に残る堂々とした構えで、漫画美術館のある「中湧別文化センターTOM(トム)」を併設。ここで紋別行きのバスに乗り換えて10分ほど、チューリップ公園の一角にある郷土博物館「ふるさと館JRY(ジェリー)」に向かう。名前の由来は「トムとジェリー」なのだそうだ(え?)。屯田兵村の歴史資料を展示する博物館だというが、いかにも「箱もの」的な外観に辟易して、あまり期待しないで中に入る。
そうしたら、ここも意外と面白かった。私は古代史や考古学にも興味はあるが、こういう近世・近代のアーカイブ資料(文書および実物)はさらに大好物なのである。同一矩形の壁面収納棚を使って、変化を持たせた展示方法も面白い。
私は、屯田兵制度についてもほとんど無知で、たとえば全国各地からの寄せ集めで隊が編成されたこと(互いに言葉が通じなくて困ったらしい)や、明治37年(1904)に屯田兵制度が廃止されると郷里に帰る者もいたこと(みんな北海道に土着したものと思っていた)は初めて知った。
展示資料は町民の家から集めてきたのだろうが、東京なら戦時中の空襲で焼けてしまったり、とっくにゴミとして廃棄されてしまった時代の資料がよく残っている。そして、その資料の背景史をじっくり調べて、手際よく解説してくれているので、どのコーナーも見ごたえ(むしろ読み応え)があった。単に「屯田兵」一般の歴史を語るのではなく、この地域に生きたひとりひとりの固有名詞や「顔」に対する愛着や敬意が感じられて好ましかった。外観だけで「箱もの」扱いして申し訳なかった。いい学芸員さんがいるんだな。
一番気に入った展示物(↓)。茶箱(むかし、私の祖母も物入れに使っていた)に、なぜか行政文書の反故紙がびっしり張りめぐらされている。内容は銃を紛失した始末書など。
「屯田兵」って、日本全国の小中学生が教科書で習うものだから、こういう展示をそっくり首都圏の歴史博物館などに持ってきてくれたら、そこそこお客が入るのではないか、と思ったが、移送費だけでも赤字になるのかなあ。
同じバス停から紋別に向かう。天然温泉のある紋別プリンスホテルに今日から2泊。中心部の定食屋で夕食をとっていると、暗くなり始めた港で花火の打ち上げ音。友人の話では、7月末に行われるはずだった「もんべつ観光港まつり」の花火大会が悪天候で今晩に順延になったのだという。港に行って、紋別の人々に立ち混じって、しばらく花火を見物。花火は豪勢だが、観客はのんびりムードで子どもの頃の地元・江戸川の花火大会を思い出す。ほどよく涼しいのもありがたい。
(8/24記)
駐車場の奥に「ところ遺跡の森」が広がる。午前9時からの「ところ遺跡の館」は、ちょうど開館したばかり。係員の方に勧められて、はじめに約9分のビデオ上映を中央ホールで見た後、円形施設の展示を見ていく。ここで、旧石器時代→縄文時代→続縄文時代→擦文時代/オホーツク文化→アイヌ文化という、北海道独特の時代・文化区分と、本州の時代区分との対応をはじめて理解する。東漸(北進)する弥生文化がついに到達しなかった結果、北海道には「続縄文」という独特の時代があること、縄文・続縄文時代が物質的にも精神文化的にも豊かな時代であったこと、同時代の擦文文化とは異なり、謎の多い「オホーツク文化」のこと、先住民と言われる「アイヌ」が意外と新しい文化であることなど、雪崩れのように新しい知識が入ってきて、面白かった。
周辺の森は遺跡公園となっており、縄文の村・続縄文の村・擦文の村と名付けて、各時代の住居跡が保存され、復元住居も建っている(かなり壊れていた)。アイヌのチャシ(砦)跡もある。森の中を歩いて、久しぶりに盛大に蚊に刺された。
少し離れて、東京大学文学部が所管する常呂資料陳列館(↓)と実習施設も建っている。陳列館は無人で、自分で照明をつけて参観する。「ところ遺跡の館」の中に「東京大学文学部常呂研究室」という表札のかかった部屋があったので、担当者はそちらに常駐しているのかもしれない。東大文学部が常呂とかかわりを持つことになる、そもそもの「縁起」も小説みたいで面白かった。
湖畔の食堂で少し早めの昼食。ホタテづくしが美味。タクシーを呼んで、計呂地(けろち)までサロマ湖畔ドライブ。計呂地のバスターミナル(交通公園)には、旧国鉄時代の駅舎と車両が残されていた。向かって右は、排雪板(ブレード)を装着したラッセル車。客車を利用した簡易宿泊施設も設けられていて、バイクや自転車で節約旅行をする旅行者に提供されている。
われわれは再び路線バスで中湧別に移動。中湧別バスターミナルは、今回訪ねた中でも印象に残る堂々とした構えで、漫画美術館のある「中湧別文化センターTOM(トム)」を併設。ここで紋別行きのバスに乗り換えて10分ほど、チューリップ公園の一角にある郷土博物館「ふるさと館JRY(ジェリー)」に向かう。名前の由来は「トムとジェリー」なのだそうだ(え?)。屯田兵村の歴史資料を展示する博物館だというが、いかにも「箱もの」的な外観に辟易して、あまり期待しないで中に入る。
そうしたら、ここも意外と面白かった。私は古代史や考古学にも興味はあるが、こういう近世・近代のアーカイブ資料(文書および実物)はさらに大好物なのである。同一矩形の壁面収納棚を使って、変化を持たせた展示方法も面白い。
私は、屯田兵制度についてもほとんど無知で、たとえば全国各地からの寄せ集めで隊が編成されたこと(互いに言葉が通じなくて困ったらしい)や、明治37年(1904)に屯田兵制度が廃止されると郷里に帰る者もいたこと(みんな北海道に土着したものと思っていた)は初めて知った。
展示資料は町民の家から集めてきたのだろうが、東京なら戦時中の空襲で焼けてしまったり、とっくにゴミとして廃棄されてしまった時代の資料がよく残っている。そして、その資料の背景史をじっくり調べて、手際よく解説してくれているので、どのコーナーも見ごたえ(むしろ読み応え)があった。単に「屯田兵」一般の歴史を語るのではなく、この地域に生きたひとりひとりの固有名詞や「顔」に対する愛着や敬意が感じられて好ましかった。外観だけで「箱もの」扱いして申し訳なかった。いい学芸員さんがいるんだな。
一番気に入った展示物(↓)。茶箱(むかし、私の祖母も物入れに使っていた)に、なぜか行政文書の反故紙がびっしり張りめぐらされている。内容は銃を紛失した始末書など。
「屯田兵」って、日本全国の小中学生が教科書で習うものだから、こういう展示をそっくり首都圏の歴史博物館などに持ってきてくれたら、そこそこお客が入るのではないか、と思ったが、移送費だけでも赤字になるのかなあ。
同じバス停から紋別に向かう。天然温泉のある紋別プリンスホテルに今日から2泊。中心部の定食屋で夕食をとっていると、暗くなり始めた港で花火の打ち上げ音。友人の話では、7月末に行われるはずだった「もんべつ観光港まつり」の花火大会が悪天候で今晩に順延になったのだという。港に行って、紋別の人々に立ち混じって、しばらく花火を見物。花火は豪勢だが、観客はのんびりムードで子どもの頃の地元・江戸川の花火大会を思い出す。ほどよく涼しいのもありがたい。
(8/24記)