見もの・読みもの日記

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明治のお屋敷は高台にあり/地図と愉しむ東京歴史散歩:地形篇(竹内正浩)

2015-11-15 23:52:11 | 読んだもの(書籍)
○竹内正浩『地図と愉しむ東京歴史散歩:地形篇』(中公新書 カラー版) 中央公論新社 2013.7

 NHKが2008年から断続的に放送してきた番組『ブラタモリ』は、今年4月から日本全国を舞台にするようになって、依然好調のようだ。私は、なかなか放送時間に視聴できないのだが、オンデマンドでチェックするようにしている。番組で、タモリさんがしばしば自称するのが「高低差ファン」。私もタモリさんほどではないが、地形の「高低差」は気になる性質で、これまでにも『タモリのTOKYO坂道美学入門』や『東京の階段』を読んできた。著者の『地形で読み解く鉄道路線の謎:首都圏編』(JTBパブリッシング、2015)も今年読んだが、本書は読み逃していた。発売当時は札幌に住んでいたので、東京ものには食指が動かなかったのだと思う。

 本書第1部は「東京の不思議な地形を歩く」と題して、東京の地形を概観する。はじめのほうに地形の標高を等高線と色の濃淡で分かりやすく表現した「皇居の地形(内堀・外堀の周辺)」「上野から芝にいたる地形(寛永寺~皇居~増上寺)」「五街道と地形(千住~品川」などの地図があって、東京の地形が、だんだん広域まで頭に入るように仕掛けられている。

 東京の地形は基本的に西高東低。しかし西部の台地は、深い谷がいくつも入り組んだ複雑な地形をしている。江戸時代の五街道のうち、尾根筋の高台を通っていたのは中山道と甲州道中、低地を通っていたのは東海道と日光道中(奥州街道は宇都宮まで日光道中と同じルート)で、徳川家康の深謀遠慮が働いているという。万一江戸城が落城したときは、半蔵門から脱出して甲州道中を西進し、甲斐の甲府城を拠点に再挙する計画だったのだ。谷より尾根道の方が軍略上有利なことは言うまでもない。おお~私は長年、甲州街道の近くに住んでいたが、江戸の都市計画には疎くて、考えたこともなかった。

 JR御茶ノ水駅付近の神田川は深い渓谷になっており、これを伊達政宗が普請したという伝説も、あわせて読むと面白い。政宗が奥州方面から攻め寄せ、本郷台地に布陣すれば、江戸城の本丸を見下ろすことができる。江戸城の北東の守りを固めるため、台地を二分する工事を請け負って、謀反の意思がないことを示したという。ただしこれは「伝説」であるとのこと。

 水にまつわる話も面白くて、江戸城(現在の皇居)のお堀は、半蔵門から玉川上水を取り入れ、南北をめぐって、一定以上の水位になると、堰き止められた土橋から隣りのお堀に流れ込み、最終的に日比谷堀(濠)から江戸湊に流れ込むようになっていた。地形の高低差を利用した設計であるという。東京の郊外、練馬区の三宝寺池、杉並区の善福寺池、三鷹市の井の頭池の水面がだいたい同じくらいであるというのにも興味をひかれた。直接水が行き来しているとは思えないが、地下水位が似ているのかもしれない、という。地形が読めると、普通の人に見えないことがたくさん見えてくるのだなあ。

 第2部は「東京お屋敷山物語」。第1部の最後に、歴史ある商店街の多くが、関東大震災後に川や湿地帯を埋め立ててできたものだと書かれている。戸越銀座しかり、谷中のよみせ通りしかり。一方、明治の都心の一等地で高台を占めていたのは、軍部か学校か寺社でなければ有力者のお屋敷だった。江戸時代の大名は回遊式庭園をつくる必要から低地や崖下を好んだが、明治30年代前半、水道が開通すると、高台への豪邸建設ラッシュが起きたという。

 本書は巻末に187件の華族・元老・元勲・富豪などのお屋敷をリストアップし、地図と標高(笑)と現在の用途などが一覧できるようになっている。知らない事だらけで、いろいろと驚いた。まずその広壮なこと。それだけ貧富の差が大きかったということになるのかな。それから、持ち主が転々と変わったお屋敷がけっこうあること。いま庭園美術館になっている朝香宮邸は、鳩彦(やすひこ)王が皇籍を離脱したあと、外務大臣公邸となって吉田茂が住んでいたのか。古河庭園の古河邸が、もと陸奥宗光邸だったことも、五島美術館の五島慶太邸が田健治郎邸だったことも知らなかった。

 富豪(実業家)は浮沈が激しいので、お屋敷もずいぶん動いている。さらに、今では忘れられた大富豪の名前もあって興味深かった。のちに三菱ヶ原と呼ばれる丸の内の更地の入札を三菱と争ったという渡辺治右エ門。知らないなあ。須藤吉左衛門も知らない。煙草王・村井吉兵衛の邸宅跡は都立日比谷高校になっていて、当時の正門や洋館が残っているそうだ。見てみたい。いま人気の朝ドラ『あさが来た』の主人公の父親のモデルは三井高益で、京都から東京の小石川に家を移して、小石川三井家と呼ばれた。この跡地は文京区立第三中学校になっているとのこと。ああ、伝通院のあたりか。

 一番驚いたのは土佐藩・山内家の別邸(のち本邸)。これが、かつて私の住んでいた家に近い代々幡村代々木(初台駅付近)にあることは、最近、今尾恵介著『地図と鉄道省文書で読む私鉄の歩み』で知ったばかりであったが、岸田劉生が大正4年に描いた『道路と土手と塀(切通之写生)』(国立近代美術館所蔵 ※画像あり)が、山内邸の南側の坂を描いたものだという(画面左側が山内侯爵邸の外壁)。驚いた。青空と剥き出しの土の道の対比が荒々しく、どこの田舎道を描いたんだろう、と思っていたので。大正年間の代々幡って、こんな風景だったのか。そして、描かれた場所に関する知識を持ってしまうと、絵画に対する印象も少し変わるなあ。
コメント
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