見もの・読みもの日記

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留学生の暮らす街/帝都東京を中国革命で歩く(譚璐美)

2016-08-28 19:29:57 | 読んだもの(書籍)
○譚璐美『帝都東京を中国革命で歩く』 白水社 2016.7

 辛亥革命前後の1900年代初頭から1920年代にかけて(大正から昭和の初め)中国では日本留学ブームが巻き起こり、日本には中国人留学生があふれていた。今、この歴史に関心を持つ日本人は少ないが、中国の側から見ると、日本留学組を無視して中国近代史を語ることは絶対にできないと思う。

 著者の自己紹介によると、著者の父親は19歳で革命運動にのめり込んで軍事政変に巻き込まれ、すんでのところで命拾いして日本に脱出し、早稲田大学で学んで、以後も日本に暮らし続けた。高校生のとき、広東大学で行われた孫文の講演会の記録係をしたことがあって、1日目「民族主義」の講演では会場に人が入り切らず、2日目「民権主義」の講演では聴衆が半分に減り、3日目「民主主義」の講演では、7、8人になってしまった。孫文は「お前らに民主主義がわかるか!」と怒って出て行ってしまった、という。著者のお父さんの話が巧いのか、あまりにも出来過ぎだけど、決して聖人君子でなかった孫文らしいと思ったので書いておく。

 本文は「早稲田」「本郷」「神田」の三部構成になっていて、各五章ずつのエピソードが紹介されている。早稲田→本郷→神田は、おおよそ時代順でもある。早稲田は、鶴巻小学校の正門前あたりに早稲田大学の清国留学生の宿舎があり、周辺には中華料理店が多かった。戊戌政変で清国を追われて日本へ亡命した梁啓超も、一時、早稲田鶴巻町に住んだ。

 本書には、各章ごとに現在の関連場所の地図と、明治30年、明治39年、明治43年、大正11年の地図の図版が掲載されているが、図版ごとに縮尺が違っていること、古地図の体裁に倣った結果、必ずしも地図の上が北でない(そのことを注記していない)ことなど、分かりにくい。梁啓超の旧居も、番地まで分かっているのだから、現在の地図でどこに当たるのか、もう少し特定できそうに思うのだが、それをしていないのも不思議である。そして「梁啓超旧居跡」の現状写真とか、おすすめ散策ルートとかがないのは、本書の編集者が、あまり街歩きに興味のない人なんだろうか? なお、著者は梁啓超が大好きだそうで「彼ほどハンサムで辮髪の似合う人はいないだろう」と書いている。私も梁啓超ファンなので、大いに同意。しかし、それなら辮髪の写真を載せてくれればいいのに、この点も気が利かない。

 ほかに早稲田に関係する者としては、宋教仁、蒋介石。蒋介石のことはよく知らないのだが、現在の東京女子医大の場所にあった振武学校(清国人専用の軍事予備学校)で学び、卒業後は新潟県高田町の陸軍連隊に配属されて、馬の世話ばかりしていたとか、辛亥革命の成功を知って帰国するとき、水盃で祝ってくれたのが師団長の長岡外史だというのはちょっといい話だと思った。

 本郷については、まず革命家の黄興。それから、魯迅が西片町の貸家(直前まで夏目漱石が住んで『三四郎』を書いた家!)に留学生仲間を誘って五人で住んでいたというのは、初めて聞いた気がする。そして漱石の新聞連載『虞美人草』を、魯迅は日本留学時代に読んでいただろうというのは、とても想像力を刺激された。日本の近代文学から中国への影響って、ほんとに「ダイレクト」に伝わっていたのだな。本郷に関係して、関東大震災発生時の日華学会(日中の文化交流、特に中国人留学生を支援するための団体)の活動や、麟祥院(文京区湯島)に建てられた中国人留学生の慰霊碑のことも紹介されている。

 神田といえば周恩来。このひとは借金に苦しみながら安い下宿を求めて転々とし、現在の東中野のあたりにも住んだことがあるというのは初耳。京都大学に提出した直筆の入学願書が今も保存されている(その後、願書を取り下げて帰国)というのも知らなかった。それから神田にはあまり直接の縁故はなさそうだが、秋瑾、孫文も登場する。

 近年、日本政府は留学生の受け入れを強く推進しており、どこの大学に行っても中国人留学生の数は圧倒的に多い。しかし、これは初めて出来した事態ではなく、ちょうど100年前の東京もこんなふうだったんだな、ということを本書を読んで感じた。今の留学生たちにも、やがて日本で過ごした日々を懐かしんでもらえたらいいなあと思う。
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