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見もの・読みもの日記

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伸び縮みする統計/人口の中国史(上田信)

2020-09-20 23:15:16 | 読んだもの(書籍)

〇上田信『人口の中国史:先史時代から19世紀まで』(岩波新書) 岩波書店 2020.8

 中国史に限らず、歴史の概説書を読んでいると、この時代、この地域の人口は〇〇万人とか、この時期に一気に人口が増えたとかいう記述がある。本書によって、近代以前の人口がどのように推計されているのかが少し分かって面白かった。

 著者は中国史を「合→散→離→集」のサイクルの繰り返しでとらえる。1つの文明が安定している状態(合)から、次第にゆらぎが生じ(散)、新たな複数の可能性が争い(離)、最後に1つの可能性が生き残る(集)というサイクルで、中国史を知っている者には分かりやすい。

 古代の王朝について、逸書『帝王世紀』には禹が中原を平定したときの人口が記載されているが、もちろん信じるわけにはいかないので、学者は発掘された遺跡の状況、邑の規模や墳墓の数から人口を推計する。漢代(西暦2年)には郡ごとの戸数と人数が『漢書』に残されており、いちおう「東アジア最初の戸口統計」と認められている。こうした統計を、現代中国の省ごとにまとめた戸数・口数(一部は推計)の一覧表が、本書は各王朝について掲載されており、前代と比較した増減率も付記されているので大変おもしろい。ただし各時代とも、税負担を逃れてになったものや辺境の異民族など、登録されていない集団がいることを忘れてはならない。

 南宋の1210年には宋朝と金朝の公式の統計を合算すると人口が1億人を超える。登録されていない人口を推計すれば、おそらく12世紀半ばには1億人を超えていたという。しかしモンゴル帝国下では(王朝が把握した人口では)6000万人程度に減少する。

 明初、洪武帝(朱元璋)は里甲制に基づく厳密な戸口調査を行った。これは「中国最初の人口センサス」と評価されている。しかし16世紀後半、銀納を認めた税制(一条鞭法)が普及すると、戸口を把握する意味が薄れ、調査は実態を反映しなくなる。

 清朝に入り、康熙帝は王朝が人民の数を把握できていないことに危機感を覚えた(さすが名君)。そこで1711年の人口(盛世滋生人丁)を以て丁銀(人頭税)を固定化し、隠された人口の表面化を誘導しようとした。しかしうまくいかなかったため、雍正帝は1726年から各地方で順次、丁銀を土地税の中に繰り込み(地丁銀)、税制から完全に廃止した。これが中国18世紀の「人口爆発」の一因とも言われている。

 しかし人口増加がその後も持続したことには、戸口統計の変化以外の理由を探さなければならない。たとえば四川・雲南・広東などへの移民政策。清朝は、漢族が安心して移住できるよう、地方行政の主体を現地の土司から中央派遣の官僚支配に転換する「改土帰流」政策をとった。これを読むと、現代中国政府が新疆や内モンゴルで起こしている問題は、共産党の独創でなく、背景に長い伝統を持つことが分かる(だから許容される、という問題ではないが)。

 実は人口急増は1680年代、「盛世」と呼ばれる太平の世のベビーブームから始まっている。このおよそ100年前、16世紀後半にトウモロコシ、サツマイモ、ジャガイモなどアメリカ大陸原産の作物が中国にもたらされ、次第に農民に普及した結果とする説もある。著者は族譜を用いて死亡の季節性を調べているが、18世紀半ば以降は平準化が進む。農業の生産性向上、救荒作物の普及により、人々が収穫の端境期を乗り越えられるようになったと考えられる。また、清朝が、漢族社会の悪習「溺女」を禁じた(根絶はできなかった)影響も大きいという。

 人口が増えるのが豊かな社会かといえば、必ずしもそうではない。18世紀に地域の隅々まで貨幣経済が行き渡り、貧富の格差が拡大すると、人口は増加し続けるが平均寿命は下がり始める。郷村では豊かな男性が多くの女性を独占し、貧しい男性は単身で地域を出て、製鉄や林業など山中の作業所で不安定な賃労働に従事した。彼らを取り込んだのが、白蓮教や太平天国などの宗教結社である。

 人口史というのは、増えた減っただけを論じる学問ではなく、数字には必ずその理由があり、また数字から導き出される未来予測があるということが分かる1冊だった。

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