見もの・読みもの日記

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国家を越える法/憲法の条件(大澤真幸、木村草太)

2016-01-08 21:07:58 | 読んだもの(書籍)
○大澤真幸、木村草太『憲法の条件:戦後70年から考える』(NHK出版新書) NHK出版 2015.1

 年末に読んだ大澤真幸さんの『日本人が70年間一度も考えなかったこと』に、憲法学者の木村草太さんと対談したことが書かれていた。読みたいと思っていたら、正月に本書を見つけた。大澤さんは自分の問題意識として、憲法を成り立たせる条件は何か、憲法の精神を実現するにはどうしたらよいか、日本人は憲法のどのような性格につまずいているのか、日本人が憲法を本当に自分のものにするのはどうしたらよいのか、という問いを「まえがき」に挙げており、これに憲法学者の木村さんが応答するかたちで対談は展開する。大澤さんの(に限らないけど)「分からないことを他人に聞いてみる」スタイルの著作が私はわりと好きだ。

 はじめに二人は「法の支配」という普遍的問題について語る。まともな国であるためには「法の支配」が絶対必要条件であるが、日本にはそれが十分確立していないのではないか。中国的な「人の支配」とは違うけれど、「空気の支配」が法の支配を蹂躙しているのではないかと大澤氏。日本人にとって法は、校庭で遊んでいる子どものところに職員室から飛んでくる先生みたいなものだ、と木村氏。つまり、空気だけでは場の調整がつかなくなったとき、「外部からやって来る」のが法の支配だと思われている。法の本来の精神というものが共有されていないから、恣意的な解釈に無防備に開かれてしまう危険性がある。

 それから日本憲法の歴史的条件について、大澤氏が「敗戦の否認」を指摘する。これに対し、木村氏が、自分より上の世代の憲法学者は、まさに否認の結果として「日本国憲法の普遍主義に逃げた」が、自分たちの世代は、歴史的文脈を無視して「日本国憲法に書いてある普遍的な価値を、当然の基本原理として理解してしまっている」と語っているのはすごく面白かった。いま若い世代の護憲運動に感じるすがすがしさも、同じ状況から来るのかもしれない。私は改憲派の主張には賛成できないが、古い護憲派が憲法を絶対不可侵視するのにもしらける。日本国憲法は、立憲主義の標準におおむね沿った「普通」の憲法である、という木村氏のドライな判定が、いちばん素直に飲みこめる。

 ただ、日本国憲法には国民が共有できる具体的な歴史物語がない(敗戦は否認されているから)。「普遍」を手放してはならないけれど、具体的な物語がないと憲法は空疎な経典になってしまう。そこで二人は憲法を駆動させるパワーを探して議論し、「未来の他者の、いまだなき願望」を受け取るという考え方が大澤氏から示唆される。

 続いて「ヘイトスピーチ」を取り上げる。木村氏は、これが「定跡では解けない憲法問題」であることを認め、その社会的背景を考えることを勧める。彼ら(ヘイトスピーチをする人々)は「普遍」が嫌いなんです、という指摘が面白かった。彼らは正義や人権などの普遍的な価値を攻撃する一方、自分たちの主張が間違っていることを、ある程度わかっているのに、敢えて「アイロニカルな没入」をしていく。違憲とわかっていながら集団的自衛権の行使を目指す人々にも、同じ構図が認められる。

 木村さんは「集団的自衛権の行使は憲法違反である」ということを、常識的な法学者の立場から理路整然と説くと同時に、普遍が嫌いという人々は、普遍的視点から承認されることに自信がないのではないか、自傷行為ではないか等、社会学者のような洞察をおこなっていて、面白かった。

 そして、日本の議会制の不調について語り、最後にもう一度、日本国憲法に命を吹き込む方法を考える。木村氏は「憲法は他者との共存のためにこそ存在している」といい、「国際的公共価値」に論及する。大澤氏は「憲法というものは、普遍的な妥当性を目指さなくてはならない」といい、「理性の公共的使用」について説く。この「公共」は、日本という国家を越えて「普遍」に開かれた概念である。でも、私は普遍について語りなおす言葉に何度でも勇気づけられるのだが、真逆な反応を示す人々が現実にたくさんいるという状況は、解決が難しいなあと思う。

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