見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

基本から学ぶ/目からウロコの琉球・沖縄史(上里隆史)

2011-10-30 23:09:56 | 読んだもの(書籍)

○上里隆史『最新歴史コラム:目からウロコの琉球・沖縄史』 ボーダーインク 2007.2

 BS時代劇『テンペスト』の時代考証をされていた上里隆史(うえざと・たかし)さんの著書。同名のブログが元ネタになっている。「あとがき」によれば、著者がブログを始めた理由は「歴史研究界では常識になっている事実が、一般にはほとんど知られていなかったこと」にあるという。この本に紹介されている「目からウロコが落ちる話」は、研究界では今さら言うほどのことでもない"常識"がほとんどなのだそうだ。

 そうは言うけど、琉球・沖縄史をきちんと語れる日本人は少ないと思う。私自身も、「琉球」という独立王国があったらしい程度の、曖昧模糊とした知識しかなかった。本書では、まず30ページほどの書き下ろしコラム「最新版すぐわかる琉球の歴史」でざっくり通史をお勉強。

 長く漁労採集の時代が続いていた南西諸島が「琉球文化圏」として形作られるのは10~12世紀頃。日宋貿易の影響で、人やモノが流れ込み、ゆっくりと農耕社会の発達を促した。各地に政治的リーダーが生まれ、琉球は戦国乱世に突入する。やがて沖縄島では、山北・中山・山南の3つの勢力が鼎立し(三山時代)、三山の王たちは、中国(明朝)から王として認められるようになった。

 15世紀はじめ、第一尚氏による統一琉球王国が成立する。しかし、政権基盤の弱かった第一尚氏王朝はクーデターで滅び、1470年、第二尚氏王朝が成立する。1609年、薩摩軍の侵攻を受け、以後の琉球は、薩摩と中国(明→清)の双方に朝貢する国家となる。薩摩による征服以前を「古琉球」と呼び、以後、明治に王国が滅びるまでを「近世琉球」と呼び習わす。なるほど。

 あとは、どこから読んでも楽しい「目からウロコ」コラム。へえ~と思ったのは、今、私がイメージする中国色の強い「琉球」は、近世以降の所産であるということ。首里城の王府儀礼も、琉球の船も建築も、古琉球時代は、もっと日本的だったらしい。ところが、薩摩による征服以降、ひとつは「儒教」という先進的な価値観による内政改革のため、また中国に対し朝貢国として「優等生」ぶりをアピールするため、さらにはヤマトの幕藩体制に呑みこまれないため、など、いくつかの理由で、中国化が進行したのだという。

 ただし、王族の食文化は、最後まで日本食系統だったようだ。今、沖縄料理といわれるものは、中国からの冊封使を迎えるための特別料理か、肉体労働中心の庶民が食べていたものだという。琉球宮廷料理、食べてみたいなあ。画像検索すると、韓国の宮廷料理に似ていなくもない。最後の琉球国王・尚泰王の息子、尚順氏が"グルメ男爵"として知られているというのも、初めて知った。

 尚王家については、東京移住後も、美術品・古文書から不動産(庭園、陵墓)まで、その遺産をきちんと管理し、今日に伝えてくださったことに本当に感謝したい。ただし、選りすぐりの「財宝」は、沖縄戦の最中、米軍に持ち去られてしまったという。日本も韓国に返すべきものは返しつつあるのだし、アメリカも返還、せめて公開してくれないものだろうか。

 あと、面白すぎるが、大坂夏の陣で死んだはずの豊臣秀頼が琉球に潜伏していたという伝説があるそうだ。明の健文帝の伝説を思い出す。少なくともウィリアム・アダムス(三浦按針)は、琉球に寄港した際、大坂から落ちのびた「位の高い人物」が首里に来たことを聞いているという。え~誰なんだ!? また、元朝17代天元帝の次男・地保奴(ティボヌ)は、捕えられて南京に送られたあと、琉球に追放されたと『明実録』にあるそうだ。本書では、1368年、明建国直後の北伐で捕えられたように読めるが、Wikiを見ると、1388年(洪武帝の晩年)藍玉の北征軍に敗れている。どっちでもよさそうだが、中国史好きとして、念のため。

※標題の本の画像は、ボーダーインク社のサイトから借りてます。

※気になる関連本。写真だけでも眺めたい。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 大衆と対峙した政治家/山県... | トップ | 憧憬と相克/南蛮美術の光と... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

読んだもの(書籍)」カテゴリの最新記事