見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

先生の蔵書/文豪・夏目漱石(江戸東京博物館)

2007-10-13 09:17:38 | 行ったもの(美術館・見仏)
○江戸東京博物館 特別展『文豪・夏目漱石-そのこころとまなざし-』

http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/

 夏目漱石の旧蔵書「漱石文庫」は東北大学附属図書館が所蔵している。その漱石文庫が江戸博で展示されるらしい、と聞いたので、地味な図書館資料をどうやって展示するのだろう、と思っていた。そうしたら、朝日新聞社、岩波書店、近代文学館など、さまざまな関係機関の「お蔵出し」に、江戸博が有する明治の世態・風俗資料を加えて、かなり包括的な「漱石とその時代」回顧展になっている。

 漱石文庫の諸本には「昭和19年2月25日」の受入印が押してあった。漱石が亡くなったのが大正5(1916)年だから、ずいぶん間が空いている。漱石の蔵書が、母校の東京大学ではなく、東北大学の所蔵に帰した理由は、いろいろ取り沙汰されているが、弟子の小宮豊隆が図書館長を勤めていたという縁のほかに、空襲を避けて疎開させる、という意味が大きかったのではないかと思う。東京への空襲は昭和17年4月から始まっており、漱石文庫の搬送は、昭和18年から始まったそうだ。漱石山房があった早稲田南町は、昭和20年3月10日の東京大空襲で焼けてしまったというから、実に危機一髪であった。

 展示では、漱石の書き込みや悪戯描き(教師の似顔絵・試験の点数?など)のある旧蔵書のほか、漱石が留学中に購入した洋書400冊余りを並べた大きな展示ケースがあった。ラスキンとかモリスとかジェーン・オースティンとか、背表紙を読んでいるだけで楽しい。私の好きな英文学、スティーブンスンの『バラントレーの若殿』(Master of Ballantrae)も見つけた!

 漱石文庫には、漱石が添削した学生の英作文とか、試験問題の草稿とか、自分の蔵書の貸出記録とか、東京帝国大学図書館の閲覧票(なぜ?笑)とか、いろいろ面白い資料も混じっている。ただ、和漢書は思ったよりも少なかった。出し惜しみしたのかなあ、と思ったが、公表されている蔵書構成でも、圧倒的に洋書が多い。東大の鴎外文庫は和漢書のほうが圧倒的に多かったはずで、これは、2人の文豪に対する私のイメージ(西洋かぶれの鴎外と、東洋趣味に帰着した漱石)と相違する。

 周辺資料から、当時の世態・風俗が分かるのも面白い。『三四郎』は、連載当時の新聞紙面が展示されていた。毎号、挿絵付きで(画家不詳?)、学生たちが演説会で痛飲したり、運動着姿で全力疾走している図が描かれている。ああ、これって風俗小説だったんだなあ、ということが了解される。『明暗』刊行時(大正6年)の岩波書店の店頭写真は、ものすごく珍しくて印象深かった。狭い店頭いっぱいに『明暗』が横積みされ、坊主頭の若い店員(丁稚?)さんが居並んでいる。大正ってこんな時代だったのかー。

 小宮豊隆が漱石に「父親になってほしい」と懇願したときの漱石の返信というのも面白かった(個人蔵)。「僕は是でも青年だぜ」とおどけた口調を交えて、やんわり拒絶し、けれども小宮の境遇に同情を寄せて、今度、自分が書いた小説を読むことを勧めている。「あれは天下の心細がっているものに読ませようと思って書いたものだ」と。手紙は明治39年(1906)12月22日の日付。翌年1月に発表されたのは『野分』である。漱石39歳。17歳下の小宮から見たら父親のようなものか。でも、なんかこう、一種異様な親密さを感じさせるなあ。

 会場には親子づれの姿がけっこう多かった。まあ、漱石の作品と生涯なら、親子で安心して観覧できるだろう。これが谷崎や荷風、三島由紀夫じゃちょっとね。充実したグッズ売り場は最後のお楽しみ。企画展(常設展エリア→別料金)の『東北大学の至宝-資料が語る1世紀』展も覗いて帰ろう。
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東アジアの文化交流/漢籍(国立公文書館)

2007-10-11 23:44:18 | 行ったもの(美術館・見仏)
○国立公文書館 平成19年度秋の特別展『漢籍』

http://www.archives.go.jp/

 国立公文書館には、明治以降の公文書のほか、紅葉文庫、昌平坂学問所、医学館など、徳川幕府由来のさまざまな古典籍が所蔵されている。和書はもちろん、漢籍も多い。しかし、一般には、公文書館に良質の漢籍コレクションがあるということは、あまり認識されていないのではないか。同館の過去の展示会リストを見ても、漢籍に的を絞った特別展は初めての試みと思われる。

 先週、三連休の中日に出かけてみたのだが、見学者は少なかった。過去の『大名-著書と文化-』とか『将軍のアーカイブズ』とか、江戸モノの特別展は、けっこう入っていたのになー。やっぱり「漢籍」じゃ普通の人は興味を抱かないか。それでも、展示は、漢籍を面白く見せようと、いろいろ工夫をこらした痕がうかがえた。たとえば、挿絵のある箇所を見せるとか。『礼記集説』は「男女七歳にして席を同じうせず」、『論語通』は「六尺之孤」、『孫子』は「風林火山」など、なるべく日本人になじみの箇所を開き、解説でも触れている。

 だが、私は、この解説がうるさく感じられた。徳川家康の遺訓「人の一生は重き荷を負いて遠き道を行くが如し」が『論語』から来ているなんて、そんなことよりも、目の前の資料が、いつの刊本で、どういう伝来を持つものか、という情報のほうが知りたい。けれど、解説プレートは、そういう書誌的情報の提示にあまり重点をおいていなかった。まあ、無料で貰える展示図録には、ちゃんと掲載されているので、そっちを参照すればいいのだが。

 また、木村蒹葭堂とか狩谷棭斎とか水野忠央とか、著名人の旧蔵書が数多く展示されていたが、ことごとく解説だけで済まされているのも物足りなかった。蔵書印とか奥書とか、証拠があるなら、そこが見たい。というわけで、何かとフラストレーションの残る展示会だった。

 興味深かったのは、中国古典の専門家には”二級品”扱いされがちな、和刻漢籍の貴重本が見られたこと。内閣文庫=”将軍のアーカイブズ”ならではの特徴だろう。慶長・元和・寛永の古活字版が4点。うち1点は、2009年の大河ドラマ「天地人」の主人公、直江兼続が出版した「直江版」である。縦長の文字と、広く空いた字間が、朝鮮本に似ていると思った。

 朝鮮本も多数出ていた。『戦国策』『陶淵明集』などの中国書も、近世の日本人は、朝鮮で出版されたものを入手して読んでいたことが分かる。中には、林羅山旧蔵『李太白文集』のように、通行本とは著しく異なる本文を持つものもあるそうだ(跋文を信じるなら、朝鮮では李白って流行らなかったんだなあ)。

 『句解南華真経』(刊行年代不明)は、ハングルの付された珍しいもの。日本人が、朱字・墨字で返り点や送り仮名を書き入れているが、「一二点」はどうも印刷らしく見えた。朝鮮本にも返り点があるのか?と思って調べてみたら、古い時代に「釈読口訣」という返り読みがあったようだが、当該資料の場合は、やっぱり日本人の書き込みらしい。
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江戸の外交/朝鮮通信使(仲尾宏)

2007-10-10 00:48:14 | 読んだもの(書籍)
○仲尾宏『朝鮮通信使:江戸日本の誠信外交』(岩波新書) 岩波書店 2007.9

 朝鮮通信使という存在を知ったのはいつ頃だろう。少なくとも教科書で習った記憶はない。私は、徳川300年イコール鎖国の時代、という日本の歴史を教わったので、慶長12年(1607)から文化8年(1811)まで、12回に及ぶ朝鮮通信使の来日があったと聞いても、しょせん人々の記憶にも残らず、正史で語る必要もない程度の、マイナーな行事であったに違いない、と思っていた。しかし、この認識は誤りで、朝鮮通信使の来日は、幕府にとって重要かつ盛大な外交イベントであり、知識人から庶民まで、多大な文化的影響を残していることが、近年、次第に分かってきた。

 本書を読んで、いちばんスリリングに感じたのは、江戸時代になって初めての通信使を迎えるまでのいきさつである。1592年の壬辰倭乱(文禄の役)と1597年の丁酉再乱(慶長の役)の記憶も新しく、朝鮮の人々には、日本に対する不信と怨恨がくすぶっていた。そんな中で、徳川新政権が行った「戦後処理」の具体的な成果が、通信使の来聘だった。このとき、国書改竄という離れ業をも辞さず、「国交回復」を主導したのは、対馬の宗氏だった。むろんそこには、「日朝貿易」の利権を命綱とする、宗氏の財政事情が絡んでいる。――なんだか、もうひとつの「戦後」における田中角栄を思い出した。

 このときの日朝国交回復に際し、ある案件に関して「政治的決着」が図られたことを、私は初めて知った。すなわち、さきの戦役で漢城府内の王陵をあばいた犯人を差し出すように求められた日本政府は、2人の青年を犯人として送致した。当初、朝鮮政府は、2人の年齢が若すぎ、真犯人とは認めがたいとしながらも、両国関係の紛糾を避けて、彼らを処刑してしまった。――今もむかしも外交って、国と国の利益のために行われるものであって、個々の人間なんて、いかようにもなる使い捨ての道具なのだなあ。また、国内の民衆を納得させるには、時間をかけた真相の追及よりも、「犯人の処刑」という目に見えるイベントが必要、という点も、妙に生々しく今日的である。

 やがて、対馬の宗氏に代わって、徳川幕府が朝鮮外交を主導する体制が作られていく。日光東照宮の参拝強要やら、文書における呼称・用語の問題、儀式次第の改変と復旧など、時にトラブルを引き起こしながら、両国は、なんとか知恵を絞って乗り切っていった。朝鮮は、日本の天皇制について、かなり正しい認識を得ていたようである。もっとも儒教の名分論の立場からは、「陪臣」である将軍が実権を握っていることも、「女帝」の存在も、理解しがたいことだようだ。こうしたことは、朝鮮通信使たちが遺した多くの日記(たいていは『海槎録』とか『東槎録』とか、それらしい名前が付いている)から知られる。

 それにしても、1811年の次は、たびたび派遣が延期され、最終的に1866年、10年後の1876年に対馬で聘礼行事を行うと取り決められたにもかかわらず、徳川政府の瓦解によって実現しなかった。つまり、明治維新の主役となった人々は、朝鮮通信使というイベントを全く体験していない世代なのだ。もしも幕末ぎりぎりに、あと一度でも通信使の来日が実現していたら、維新後の日韓関係は、違ったものになっていただろうか。

■参考:朝鮮通信使一覧(九州大・松原研究室)
http://matsu.rcks.kyushu-u.ac.jp/p/study/
13tsusinsi-kenkyu/1chousentsuusinsi/0chousentsuusinsi.html

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国民国家ではなく/統一コリア(玄武岩)

2007-10-09 00:27:02 | 読んだもの(書籍)
○玄武岩『統一コリア:東アジアの新秩序を展望する』(光文社新書) 光文社 2007.9

 韓国と北朝鮮が対話と協調を推し進め、やがて分断を乗り越えること。私はどちらかといえば、こうした立場に共感しながら関連書籍を読んできた。北朝鮮が、どうしようもなく胡乱な(あやしい・危ない)国家であることは重々承知である。しかし、北朝鮮の現体制を転覆させ得たとして、その後の事態収拾まで責任あるビジョンを示してくれる議論でなければ、参照する価値はないと思う。それと、当事者である朝鮮半島の人々が、互いの主権を認めた上で、漸進的統一の道を選ぶのなら、それを尊重するのが隣国のつとめだとも思う。

 けれど、特に朝鮮半島のニュースに注目しているわけでもない、私のような普通の日本人からすると、この数年の南北関係は、一進一退の繰り返しにしか思えなかった。先日(2007年10月)行われた、久しぶりの南北首脳会談にしても、日本のマスコミでは、大統領任期切れ前の盧武鉉氏のパフォーマンスという見方が一般的だった。本当にそれだけなのか? 悔しいが、韓国語の分からない私には、確かめる術がない。近年、韓国の芸能情報だけは、とめどもなく日本社会に入って来るようになったが、それ以外の韓国情報は、相変わらず、十分に届いていないような気がする。

 なので、本書を読んで、南北の交流が着実に拡大している事実を知ると、ちょっと驚く。韓国から北朝鮮への訪問者数は、2005年に8万7000人(それ以前の総数に匹敵)、2006年には10万人を突破したという。北朝鮮の開城(ケソン)特区で生産された製品は韓国産として世界に輸出されている(韓国政府がASEANや米国との交渉の末、認めさせた)。

 興味深いのは、韓国メディアにおける北朝鮮イメージの変化である。1970年代まで、韓国では徹底した反共教育が行われた。運動会では子供たちが「模擬間諜」探しを競い合った。「タバコの値段が分からない」「靴に土が付いている」など、日頃、教えられた間諜(スパイ)識別法を用いて、北の間諜を見つけ出すゲームである。日本アニメの影響を受けて、反共SFアニメ、反共ロボットアニメ(!)も多数作られたという。『宇宙戦士ホンギルトン』とか『ロボット王サンシャーク』とか、題名を見るだけで笑える。1969年生まれの著者は、実際、こういうアニメを見て育ったのだろうか。

 1980年中盤以降、教科書の記述は、北朝鮮に対する敵対意識を次第に改めた。映画やドラマにおいても、絶対的な悪であった北朝鮮を、同じく祖国分断の犠牲者として捉えた「分断もの」が現れ、さらにフィクションの中で分断を乗り越えようとする「統一もの」に変化していく。タイムスリップした南北の兵士が、民族の英雄・李舜臣を助けるという歴史SF映画『天軍』、ちょっと見たい。

 重要なことは、著者の描く「統一コリア」が国民国家的な統合では「ない」ということだ。「ベトナム式でもドイツ式でもない脱民族的な統一」「国民国家の枠組みを根底から問い直す試み」だという。本当にそんなことができるのか。できるとすれば、東アジアの政治的枠組みが根底から変わる契機になるだろう。日本は、アジアにおいていちはやく国民国家的統合を成し遂げたことによって、おおよそ、その後の繁栄を保ってきた。いま、違う道筋を選ぼうとする隣国を見守りたいと思う。
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いろいろ(院政期の絵画・歴史コンテンツ・性格診断)

2007-10-07 00:04:08 | 見たもの(Webサイト・TV)
 最近、ネットで見つけたものを、まとめて記述しておこう。まず、奈良博の『美麗 院政期の絵画』関連情報を探していて、見つけたものから。

■平成19年度独立行政法人国立文化財機構に係る年度計画(PDFファイル)
www.nich.go.jp/kisoku/07.pdf

 現在、4つの国立博物館と2つの文化財研究所は「国立文化財機構」という独立行政法人を構成している。これは、その法人が、平成19年度の事業計画を公にしたもの。特別展については、それぞれ「目標入場者数」が掲げられている(p.8~)。

 それによると『院政期の絵画』は9/1~9/30の1ヶ月(休館日あり)で1万人。東博の『京都五山 禅の文化』が10万人、京博の『狩野永徳』が7万人と比べると、ずいぶん控えめな数字だ。でもまあ、観客の立場からすれば、1日330人程度、8時間開館として1時間に40人程度というのは、ゆっくり作品に向き合う環境として、妥当な数字だと思う。

 ところが、次の『正倉院展』は18万人! 10/27~11/12の16日間で18万人ということは、1日に1万人以上、1時間に平均1400人以上の入場者が見込まれている。えええ~狂気の沙汰か!? 博物館の法人化以来、正倉院展の入場者数は急激に増えているらしい。私はそれも「仕方のないこと」だと思っていた。でも、このように莫大な入場者数が、博物館の「目標」として掲げられているのを見ると、敢えてその見識を正してみたくなる。

 いったい、人波に揉まれて展示物の前を素通りすることが、文化財の観覧として、望ましいスタイルだろうか。「日本の歴史・伝統文化及び東洋文化の理解促進を図る」という国立博物館の目的を本気で考えるなら、最適入場者数は、もっとずっと低くあるべきだし、最適入場者数を「下回る」ことよりも、大幅に「上回る」事態に対して、きちんと防止策が取られなければならないと思う(宣伝を控えるとか、入場料金を上げるとか。それでも行きたいヤツは行く)。

 こんなこと言っても、文化オンチの官僚には理解されないんだろうな。たまたま見つけたのは、平成16年度の国立博物館の業務の実績に関する評価(PDFファイル)だが、目標入場者数を上回れば「A」、下回れば「B」または「C」。数字の意味や効果を問う余地はない。あ~底の浅い文化行政だなあ。いやになっちゃう。

■2ちゃんねる:仏画の名品について語るスレ
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/gallery/1127288186/

 初めて見つけたスレだが、『院政期の仏画』関連情報が多いので、ここに貼っておこう。やっぱり、私と同じ『王朝の仏画と儀礼』以来の仏画ファンっているんだなー。「次回はまた10年くらい先ですかねえ」っていうのが、可笑しくて悲しい。

 上記スレでも話題になっている奈良博の展示図録1,500円は、廉価で嬉しかった。図版を眺めていて、私が見逃した前期展示品の中で、あ~これ見たかったな~と思ったのは、山形・上杉神社(→祭神は上杉謙信)の『毘沙門天像』。ふっくらした面立ち、優美で華やかな、非常に珍しい毘沙門天像である。これ、宝物殿で常時見られるのかなあ。見られるのなら、米沢、行っちゃうんだけど。

■:4Gamer.net:国際クロスメディアシンポジウム(2007/10/01)
http://www.4gamer.net/games/019/G001972/20071001034/

 ということで、毘沙門天から『風林火山』つながり。先ごろ、京都の太秦映画村で、映画界、テレビ界、そしてゲーム界の関係者が集まり、「歴史創作の魅力を探る~アジアンエンタテインメントの展望~」と題したシンポジウムが行われた。武侠小説の大御所・金庸氏の出席が、ドクターストップで中止になったことは残念である。でも、「歴史コンテンツによるエンターテイメント」って、確かに汎・東アジア的に盛り上がりの機運があるなあ。『風林火山』の制作統括・若泉久朗氏の撮影裏話も興味深い(CGで馬を増やす、とか)。

■性格診断:あなたは戦国武将でいうと誰?
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kazu1110/busyou.html

 これはお遊び。話題の性格診断テストをやってみたら、「あなたは北条氏康に似ています」と出た。渋いなあ。地味すぎて、あまり自慢にならないけど、『風林』の氏康殿は好きなので、ひそかに嬉しかった。
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至福の特別展/院政期の絵画(奈良博)

2007-10-06 17:53:38 | 行ったもの(美術館・見仏)
○奈良国立博物館 特別展『美麗 院政期の絵画』

http://www.narahaku.go.jp/exhib/2007toku/insei/insei-1.htm
(※特別展トップページ→会期終了のため、奈良博のサイトからは消えている)

 先週末の「関西週末旅行9月編」の続き。ほぼ開館と同時に会場に入った。雨の日曜日(最終日)の朝、見学者の姿はまばらで、広いホールを取り囲んだ展示品が一目で見渡せた。冒頭でニラミを利かせているのは、高さ3メートルを越す巨大な『五大力菩薩像』(龍王吼菩薩)。隣は、兵庫・一乗寺の『聖徳太子及び天台高僧像』より3点。東博の『天台の国宝』で見た「善無畏」が懐かしかった。「慧文」の靴もかわいい。京博の『釈迦金棺出現図』は年来のお気に入り。最古の『十六羅漢図』も東博で見た記憶がある。ここまで、全て国宝。

 この展覧会、実は何が出ているのか、全くチェックしていなかった。ただ「院政期の絵画」と聞いて、条件反射的に「見逃せない!」と思って、新幹線に飛び乗ってしまったのである。会場に足を踏み入れて初めて、これは大変なことになっている、と気づいた。京博の『十二天』、東博の『孔雀明王像』と、美術史の教科書に載るような(→読んだことはないのだが)名品が続く。とても現実とは思われず、デジタルアーカイブの中に迷い込んだような気持ちだった。

 第1室(美麗のほとけ)の半分まで来て、ようやく「知らない」作品に出会った。三面六臂、赤い肉身の憤怒像。ボストン美術館蔵『馬頭観音像』である。頭部がアフロヘアみたいに見えるのが面白い。台座や装身具の細密な描写が、国内のどの作品よりもよく残っている(補修の成果か?)。確かに、名品の一。でも好みでは『孔雀明王』ほどではないので、アメリカに行っていることは良しとしよう。

 第1室を出て、え、まだ続くの?と半信半疑で次に向かう。だって、もう国内の仏画の名品はあらかた見ちゃったじゃん――。私は展覧会のタイトル「院政期の絵画」を「院政期の仏画」と勝手に翻訳していたのである。実際、広報用のチラシやポスターも多くが仏画を用いていたし、そもそも私が院政期絵画に興味を持ったきっかけが、1998年に京都国立博物館で行われた『王朝の仏画と儀礼』展だったということもある。

 しかし、この展覧会は仏画だけではなかった。第2室には説話絵と装飾経が。『平家納経』は、うわああ、いちばん有名な(多分)「厳王品」が出ている! 見返しは、水辺で祈る女房たちの図。対岸は阿弥陀浄土なのだろうが、壇ノ浦に沈んだ平家の女性たちの運命が重なる。「薬王品」は、金粉・金箔を惜しげもなく用いて描かれた浄土に「此命終即安楽也」という散らし書きがもの悲しい。

 普通の観客なら、このへんで「お腹いっぱい」だろう。ソファに座り込んだり、足を速めて先を急ぐ姿が目につくようになる。正直、私もちょっと疲れてきた。ところが、次の「絵巻物の世界」が、また信じられない展開。怖いもの見たさの欲望を刺激する『地獄草紙』→『餓鬼草紙』→『病草紙』→『辟邪絵(全5点一挙公開!)』が並んだ有様は、凄絶というか壮観というか。人間の業の深さを感じてしまった。

 ホールの反対側にまわり、ほとんど観客のいない展示ケースに近づいて、息が止まりそうになった。『伴大納言絵巻』上巻ではないか~。応天門の火柱のちょっと前から、巻末(寝所の天皇)まで、かなり広範囲に開けてある。2006年の出光美術館の特別展なんて、人の頭を見に行ったようなものだったのに、今日はどれだけじっくり眺めてていても誰にも怒られない!

 その隣には『信貴山縁起絵巻』尼公の巻。『信貴山』は、どの巻も個性的で甲乙付け難いが、物語の大団円にあたる「尼公の巻」は、ほのぼのした味わいが、じんわり胸に残る。『粉河寺縁起絵巻』も好きだ。素直な信仰心の表出が感動的である。

 このほか、本願寺本『三十六人歌集』、元永本『古今和歌集』、珍しいところでは、ニューヨーク・パブリック・ライブラリーから出陳の彩色絵入写本『九曜秘暦』(現地で見たかも)など、まだまだ見どころ多数。あまりに盛りだくさん過ぎて、最後の『蓮池図』(法隆寺)なんか、みんな素通りだった。もったいない。

 朝イチで会場に入った私は、途中で空腹に耐えられなくなったため、いったんお昼を食べに行き、また戻って見続けた(当日なら再入場できるんですよ!知ってました?)。この日、東京に帰るのでなければ、夕方まで会場に居続けてもよかったと思っている。至福のひとときを創出してくれた関係者の皆様に感謝(この日、会場で西洋人のお客さんを案内する梶谷亮治氏を見かけた)。まだ少し語り残したことは、稿をあらためて。
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『安晩帖』と石の魅力/文人の世界(泉屋博古館)

2007-10-05 09:04:48 | 行ったもの(美術館・見仏)
○泉屋博古館(京都) 平成19年度秋季展『住友コレクション 文人の世界~中国書画と文房具~』

http://www.sen-oku.or.jp/kyoto/

 中国の書画に惹かれて訪ねてみたのだが、片面の壁に並んだ軸物には、あまり面白いものがなかった。あれー期待外れかな?と思って、テンションが上がらないまま、ホール内をまわった。ちょっといいと思ったのは、清の八大山人の『酔翁吟』という書。禿筆を用いた肥痩の少ない書体で、サインペンで書いたような大らかな味わいがある。

 続いて視界に飛び込んできたのは、色紙を綴じたような、正方形に近い画帖。広い余白の中央に、蕪形の花瓶と、花一輪。どう説明したらいいだろう。極限までデザイン化された形態は、児戯と天才の紙一重。中国の書画というより、光悦や宗達や若冲に近い。『安晩冊(瓶花図)』(八大山人筆、1694=康煕33年)というキャプションが添えられていた。さきほどの『酔翁吟』と同じ作者である。これはすごい。あんまり面白かったので、帰りに受付で収蔵品カタログを眺めたら、画帖に収められたほかの作品もすごいということが分かった。

 さっき、ネットで調べてみたら、松岡正剛さんの「千夜千冊」サイトに、『安晩冊』(あんばんさつ=安晩帖)は、「これを見ないでは京都にいる甲斐がない」と紹介されていることが分かった。それを聞いた白洲正子さんが「けだし名言」と応じた由。興味を持った方は、ぜひ自分の目で確かめていただきたい(→写真多数)。いやーこの展覧会、見に来てよかった。

 そのほかは、墨・筆・硯など。先月、旅行したばかりの中国・安徽省(文房四宝のふるさと)を思い出すような品々である。珍しかったのは、明代の鍍金魁星像。「魁星」は文運を司る星の神様で、鬼のような姿をしている。日本・中国の古い書籍の冒頭には、これをデザインされた朱印が押されていることが多いが、立体像は初めて見た。それから、木の枝に瓢箪を結んだものは、これが文房具?とフシギに思ったが、よく見ると先端がY字形になっている。軸物を掛けるときに使う道具だそうだ。

 印鑑と印材もたくさんあった。最も印象的だったのは、田黄というキャラメル色の印材2点と、濃緑の翡翠印材1点のセット。黄楊(つげ)のお盆(印材台)に載っている。田黄には獅子形の紐(ちゅう:もちて)が付いているが、印はまだ刻まれていない。翡翠は完全に無刻の直方体である。あまりに完璧な美しさに物怖じして、誰も印を刻むことができなかったのだろう。無機物とは思えないみずみずしさ。口に含んだら、甘味が溶け出るのではないかと思われた。福建省の寿山で産する田黄は「印材の王」とも呼ばれるそうである。また、浙江省の青田石の一種、燈火凍石の印材も美しかった。「凍れる燈火」の名にふさわしい透明度である。オレンジゼリーのようにも見える。

 これまで中国に旅行するたびに、さまざまな印材を見てきたが、魅力を感じたことは一度も無かった。生まれて初めて「石って美しい!」ということに気づいてしまった次第である。どうしよう。齢四十を過ぎて、書に目覚め、陶磁器に目覚め、とうとう石に目覚めてしまったかも知れない。帰りに泉屋博古館の収蔵カタログ『印材』を買ってしまった。いま、新たな「美」の世界を勉強中である。

 このあと、細見美術館で琳派展X『神坂雪佳-京琳派ルネサンス-』を見て1日を終了(記事省略)。


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戦う者たち/血涙(北方謙三)

2007-10-04 00:36:27 | 読んだもの(書籍)
○北方謙三『血涙:新楊家将』上・下 PHP研究所 2006.12 

 先日、読み終えた北方『楊家将』の続編。物語は『楊家将』の後日談である(以下ネタバレ)。楊業の死から2年後。生き残った六郎、七郎は、楊家軍の再興を志す。その頃、北辺の遼国には、記憶を失ったひとりの宋の武人が留められていた。彼は石幻果と名づけられ、蕭大后の娘・瓊峨姫に愛され、勇将・耶律休哥を師とも父とも慕う。やがて、宋国と遼国が再び干戈を交えるに至り、石幻果は、自分が楊家の四男であることを知る。苦悩の末、遼の武人として生きることを選んだ石幻果は、血を分けた兄弟たちとの激戦に臨む。

 面白かった。ただ、前作『楊家将』が、あまりにも衝撃的だったのに比べると、続編は、一定の期待を抱いて読み始めるので、よしよし期待どおりという感じである。

 私は、この続編のほうが”中国ぶり”が強いと思った。前作は最後に楊業と息子たちをカタストロフ的な悲運が襲う。これに対して続編では、楊業の長男延平のひとり息子延光とか、女武将の九妹とか、けっこう重要な人物が物語途中でバタバタと死んでいく。しかも、首が飛び、血しぶきの上がる壮烈な戦死も、淡々と片付けられ、その傍らで戦闘は続いていくのである。この恐ろしいほどの命の軽さ、死者を悼むことよりも生者のドラマを重視する態度は、たとえば『水滸伝』の後半を読んでいて感じたものに似ている。それから、破戒僧の姿でふらりと戻ってきて、石幻果(四郎)との果し合いに赴く五郎の、アクの強いキャラクターも、中国の武侠小説っぽい。

 石幻果が、楊四郎としての記憶を取り戻し、2つの国の間でアイデンティティに苦しむところは、金庸『天龍八部』の主人公のひとり、喬峯を思い出した。自分を宋人(漢民族)と思い込んで育った喬峯は、殺された両親が遼人である(しかも宋人は仇)と知って衝撃を受ける。中国中央電視台(CCTV)制作のドラマでは、喬峯は「我是契丹人」と何度もつぶやいていた。つまり、中国人の認識では、「宋」「遼」というのは国号よりも民族の違いなのである。この感覚は、日本人にはちょっと分かりにくい。

 物語は、1004年、宋と遼の和睦(澶淵の盟)をもって閉じられる。楊業の息子たちのうち、楊六郎だけが生き残るが、「もはや武門の時代ではない」ことが繰り返し語られているところからして、続々編は作られないだろう。でも、できれば北方さんに、ぜひ岳飛の時代(南宋×金)も書いてほしいと思う。

 本作は、中国の史書あるいは民間伝承にどのくらい拠っているのだろう。ほとんど著者の創作なのだろうか。楊業の長男延平の息子が延光、六郎延昭の息子が延礼、延昇となっているが、こういう(父親の名前の1字を貰う)名付け方は、中国ではアリなのか。些細なことだが、名作であるだけに気になる。

■おまけ:絶世の美女占い
http://www.cortigiana.net/uranai/index.html
 むかし、これをやってみたら、私の診断結果は『楊家将演義』や『楊門女将』に登場する女将軍、穆桂英(本作には登場せず)だった(笑)。興味があれば「穆桂英」で検索されたし。
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関西週末旅行9月編(4)京都国立博物館・日本絵画ほか

2007-10-03 12:50:45 | 行ったもの(美術館・見仏)
○京都国立博物館(平常展示)・日本絵画ほか

http://www.kyohaku.go.jp/jp/index_top.html
(展示詳細は10月版に更新済)

 今回、特別展も特集展示も行われていない京博に、それでも寄ろうと思ったのは、国宝『風神雷神図屏風』(俵屋宗達筆)が公開中と知ったからだ(9/5~9/30)。もちろん、これまで何度も見ているのだけど、好きなものは何度見てもいいのである。それにしても、昨年秋、出光美術館の『国宝 風神雷神図屏風』展は大盛況で、人の頭を見に行ったような有様だった。今回はゆっくり眺めることができて嬉しい。しかし、この屏風は、本来の日本間か、出光美術館くらいの展示空間がふさわしいように思った。京博の平常展示室は、明るくひろびろしすぎて、いまいち屏風が映えず、ちょっとかわいそうだった。

 それよりも、私が興奮したのは、同じ展示室の壁一面に『鶴図下絵和歌巻』が長々と広げられていたこと。光悦が流麗な筆跡で三十六歌仙歌巻を書き、宗達が金銀泥で群れ飛ぶ鶴を描いた、両巨匠コラボの代表作である。全長13メートルに及ぶはずだが、驚くべきことに、巻頭から巻末まで一挙に開かれている。多分これまでにも、一部分なら見たことはあるはずだ。しかし、これは一気に全体を眺めてこそ真価が分かる作品だと思う。「収蔵品データベース」の細切れ画像なんて、どこが名品なのか、まるで分からないだろう。

 宗達は、群れ飛ぶ鶴の姿を単純化・没個性化し、スタンプを押すようにリズミカルに配している。特に、料紙の上端にくちばしだけを覗かせた鶴が、次第に下降し、下端に脚を残して消えていくところは「天地の限定される巻子画面を逆手にとった見事な構成」という解説に心から同意する。ほんとに天才! あわせて、宗達の『牛図』2件が見られたことも嬉しかった。最晩年の作。「たらしこみ」の名作と言われるが、もはや技巧云々を超えた域にあるように思われる。

 絵巻のコーナーも、いつもながらの充実。いちばん嬉しかったのは『百鬼夜行絵巻』の最古本、真珠庵本が見られたこと。近世以降の摸本はいくつも見たことがあるが、原本は初見かもしれない。ほぼ巻頭から巻末までの公開だった。これまで、摸本はどれも派手な色づかいだなあと思っていたが、原本も、室町時代(15世紀)の作とは思えない色鮮やかさでで、ピンク、オレンジ、黄色など、中間色を多く使っている。それにしても、どうしてこんな絵巻を思いついたのかなあ。

 最後に書蹟、工芸などを流してまわった。工芸の展示室で、小川破笠が考案した「笠翁細工」の小特集をやっていたのが面白かった。小川破笠(おがわ はりつ、1663-1747)は、江戸時代の漆芸家であるが、金属粉を用いる従来の蒔絵に飽き足らず、陶器片・ギヤマン・鼈甲など、多様な素材を埋め込む笠翁細工(破笠細工)を生み出したという。ベトナムのカイディン廟の装飾を思い出してしまったのは、突飛な連想だろうか。
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関西週末旅行9月編(3)京都国立博物館・中国絵画

2007-10-02 22:57:08 | 行ったもの(美術館・見仏)
○京都国立博物館(平常展示)・中国絵画

http://www.kyohaku.go.jp/jp/index_top.html
(展示詳細は10月版に更新済)

 2階に上がると、いつものように書蹟の部屋を通り抜け、中国絵画の部屋に向かう。角を曲がって、息を呑んだ。左右の展示ケースが、天井いっぱいまで、輝く金色で満たされている。18世紀、清・康煕年間の『楼閣山水図屏風』。画像は、あえて一般向けの「収蔵品データベース」ではなく、子ども向けの「博物館ディクショナリー」にリンクを貼っておこう。かなり縦長の八曲一双屏風で、さらに黒地に金の透かし彫りの入った「足」で底上げされているため、高さは3メートルを超え、中国の(大商人の)大邸宅を彷彿とさせる。

 よく見ると、それぞれ画風が異なる。私は袁江筆の夏景のほうが好きだ。中唐の宰相、裴度が洛陽の南に構えた別荘、緑野堂の様子を写したものというから、広々とした水面は伊河(龍門石窟のあるところ)だろうか。蜃気楼のような巨大な岩山が宙に浮かぶ。下界では、淡々と繰り広げられる庶民の生活。ぼんやり門口に座り込んだ老翁。幼子に乳を含ませる母親。遠景には烽火(のろし)が上がっている。

 今期の見どころの随一は、国宝『官女図』(元代、伝銭選筆)であろう。赤い官服の腰に横笛を挟み、男装した官女を描いた小品。唐代の風俗である。豊かな腰まわり、低く締めた石帯は、若い男性そのままだが、小指の先を見つめる神経質な仕草に女らしさがこぼれる。

 その隣りは、水墨画の『栗鼠図』。画面右下のザクロをねらう3匹のリス。分解アニメーションのようだ。ふわふわの毛、つぶらな瞳、小さな指爪が、悶絶するほど愛らしい。作者の松田は、元代の栗鼠描きの名手として、室町時代の美術書にも載っているそうだ。検索してみたら、今週から始まった東博の特集陳列『中国書画精華』にも出品されているらしい。それじゃ、近いうちにまた上野で会えるかも。
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