○江戸東京博物館 特別展『文豪・夏目漱石-そのこころとまなざし-』
http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/
夏目漱石の旧蔵書「漱石文庫」は東北大学附属図書館が所蔵している。その漱石文庫が江戸博で展示されるらしい、と聞いたので、地味な図書館資料をどうやって展示するのだろう、と思っていた。そうしたら、朝日新聞社、岩波書店、近代文学館など、さまざまな関係機関の「お蔵出し」に、江戸博が有する明治の世態・風俗資料を加えて、かなり包括的な「漱石とその時代」回顧展になっている。
漱石文庫の諸本には「昭和19年2月25日」の受入印が押してあった。漱石が亡くなったのが大正5(1916)年だから、ずいぶん間が空いている。漱石の蔵書が、母校の東京大学ではなく、東北大学の所蔵に帰した理由は、いろいろ取り沙汰されているが、弟子の小宮豊隆が図書館長を勤めていたという縁のほかに、空襲を避けて疎開させる、という意味が大きかったのではないかと思う。東京への空襲は昭和17年4月から始まっており、漱石文庫の搬送は、昭和18年から始まったそうだ。漱石山房があった早稲田南町は、昭和20年3月10日の東京大空襲で焼けてしまったというから、実に危機一髪であった。
展示では、漱石の書き込みや悪戯描き(教師の似顔絵・試験の点数?など)のある旧蔵書のほか、漱石が留学中に購入した洋書400冊余りを並べた大きな展示ケースがあった。ラスキンとかモリスとかジェーン・オースティンとか、背表紙を読んでいるだけで楽しい。私の好きな英文学、スティーブンスンの『バラントレーの若殿』(Master of Ballantrae)も見つけた!
漱石文庫には、漱石が添削した学生の英作文とか、試験問題の草稿とか、自分の蔵書の貸出記録とか、東京帝国大学図書館の閲覧票(なぜ?笑)とか、いろいろ面白い資料も混じっている。ただ、和漢書は思ったよりも少なかった。出し惜しみしたのかなあ、と思ったが、公表されている蔵書構成でも、圧倒的に洋書が多い。東大の鴎外文庫は和漢書のほうが圧倒的に多かったはずで、これは、2人の文豪に対する私のイメージ(西洋かぶれの鴎外と、東洋趣味に帰着した漱石)と相違する。
周辺資料から、当時の世態・風俗が分かるのも面白い。『三四郎』は、連載当時の新聞紙面が展示されていた。毎号、挿絵付きで(画家不詳?)、学生たちが演説会で痛飲したり、運動着姿で全力疾走している図が描かれている。ああ、これって風俗小説だったんだなあ、ということが了解される。『明暗』刊行時(大正6年)の岩波書店の店頭写真は、ものすごく珍しくて印象深かった。狭い店頭いっぱいに『明暗』が横積みされ、坊主頭の若い店員(丁稚?)さんが居並んでいる。大正ってこんな時代だったのかー。
小宮豊隆が漱石に「父親になってほしい」と懇願したときの漱石の返信というのも面白かった(個人蔵)。「僕は是でも青年だぜ」とおどけた口調を交えて、やんわり拒絶し、けれども小宮の境遇に同情を寄せて、今度、自分が書いた小説を読むことを勧めている。「あれは天下の心細がっているものに読ませようと思って書いたものだ」と。手紙は明治39年(1906)12月22日の日付。翌年1月に発表されたのは『野分』である。漱石39歳。17歳下の小宮から見たら父親のようなものか。でも、なんかこう、一種異様な親密さを感じさせるなあ。
会場には親子づれの姿がけっこう多かった。まあ、漱石の作品と生涯なら、親子で安心して観覧できるだろう。これが谷崎や荷風、三島由紀夫じゃちょっとね。充実したグッズ売り場は最後のお楽しみ。企画展(常設展エリア→別料金)の『東北大学の至宝-資料が語る1世紀』展も覗いて帰ろう。
http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/
夏目漱石の旧蔵書「漱石文庫」は東北大学附属図書館が所蔵している。その漱石文庫が江戸博で展示されるらしい、と聞いたので、地味な図書館資料をどうやって展示するのだろう、と思っていた。そうしたら、朝日新聞社、岩波書店、近代文学館など、さまざまな関係機関の「お蔵出し」に、江戸博が有する明治の世態・風俗資料を加えて、かなり包括的な「漱石とその時代」回顧展になっている。
漱石文庫の諸本には「昭和19年2月25日」の受入印が押してあった。漱石が亡くなったのが大正5(1916)年だから、ずいぶん間が空いている。漱石の蔵書が、母校の東京大学ではなく、東北大学の所蔵に帰した理由は、いろいろ取り沙汰されているが、弟子の小宮豊隆が図書館長を勤めていたという縁のほかに、空襲を避けて疎開させる、という意味が大きかったのではないかと思う。東京への空襲は昭和17年4月から始まっており、漱石文庫の搬送は、昭和18年から始まったそうだ。漱石山房があった早稲田南町は、昭和20年3月10日の東京大空襲で焼けてしまったというから、実に危機一髪であった。
展示では、漱石の書き込みや悪戯描き(教師の似顔絵・試験の点数?など)のある旧蔵書のほか、漱石が留学中に購入した洋書400冊余りを並べた大きな展示ケースがあった。ラスキンとかモリスとかジェーン・オースティンとか、背表紙を読んでいるだけで楽しい。私の好きな英文学、スティーブンスンの『バラントレーの若殿』(Master of Ballantrae)も見つけた!
漱石文庫には、漱石が添削した学生の英作文とか、試験問題の草稿とか、自分の蔵書の貸出記録とか、東京帝国大学図書館の閲覧票(なぜ?笑)とか、いろいろ面白い資料も混じっている。ただ、和漢書は思ったよりも少なかった。出し惜しみしたのかなあ、と思ったが、公表されている蔵書構成でも、圧倒的に洋書が多い。東大の鴎外文庫は和漢書のほうが圧倒的に多かったはずで、これは、2人の文豪に対する私のイメージ(西洋かぶれの鴎外と、東洋趣味に帰着した漱石)と相違する。
周辺資料から、当時の世態・風俗が分かるのも面白い。『三四郎』は、連載当時の新聞紙面が展示されていた。毎号、挿絵付きで(画家不詳?)、学生たちが演説会で痛飲したり、運動着姿で全力疾走している図が描かれている。ああ、これって風俗小説だったんだなあ、ということが了解される。『明暗』刊行時(大正6年)の岩波書店の店頭写真は、ものすごく珍しくて印象深かった。狭い店頭いっぱいに『明暗』が横積みされ、坊主頭の若い店員(丁稚?)さんが居並んでいる。大正ってこんな時代だったのかー。
小宮豊隆が漱石に「父親になってほしい」と懇願したときの漱石の返信というのも面白かった(個人蔵)。「僕は是でも青年だぜ」とおどけた口調を交えて、やんわり拒絶し、けれども小宮の境遇に同情を寄せて、今度、自分が書いた小説を読むことを勧めている。「あれは天下の心細がっているものに読ませようと思って書いたものだ」と。手紙は明治39年(1906)12月22日の日付。翌年1月に発表されたのは『野分』である。漱石39歳。17歳下の小宮から見たら父親のようなものか。でも、なんかこう、一種異様な親密さを感じさせるなあ。
会場には親子づれの姿がけっこう多かった。まあ、漱石の作品と生涯なら、親子で安心して観覧できるだろう。これが谷崎や荷風、三島由紀夫じゃちょっとね。充実したグッズ売り場は最後のお楽しみ。企画展(常設展エリア→別料金)の『東北大学の至宝-資料が語る1世紀』展も覗いて帰ろう。