見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

唐物をめぐって/中華幻想(橋本雄)

2011-05-19 23:27:44 | 読んだもの(書籍)
○橋本雄『中華幻想:唐物と外交の室町時代史』 勉誠出版 2011.3

 室町日本には、(A)文明の表象としての中華帝国へのあこがれと、(B)自身(自国)を中華に同化させ、周辺諸国(朝鮮・琉球)を見下す両極をもった対外意識が見られる。「中華幻想」とは、「ちょっといじらしくも複雑な、『帝国意識』の亜種なのだ」と著者は規定する。

 本書は、前掲(A)の面を論じた論文が多い。冒頭の「室町殿の《中華幻想》」は、その代表的なもの。義満の受封儀礼(冊封使との対面)の執行ぶりを検討することにより、義満が明側の規定を全く逸脱していること、したがって、明国皇帝の威光に心服し、「日本国王」の冊封を受けることによって、天皇の権威を相対化し、皇位簒奪を図ったという説明は、明らかに無理があると結論する。

 うーん、皇位簒奪説には私も違和感を抱くが、天皇を相対化する意図は全く汲み得ないのかな。受封儀礼の件は、日本みたいな辺境の小国が礼儀を知らなくても、面倒臭いから放置されたんだろうと思う。義満はそれをいいことに、体よく中華皇帝の威を借りて、実質的に(主に経済的な面で)日本国内の覇権を掌中におさめようとした…とは考えられないだろうか。以上は、根拠も何もない、義満好きの私の妄想であるが。

 むしろ興味深かったのは、唐物愛好には、異国におけるそれらの物本来の扱われ方への関心はほとんど感じられず、「和の中の漢」として新たな生命を受ける、という芸術文化観である。

 III章「皇帝へのあこがれ」は、義持が亡父・義満を徽宗皇帝に喩えたことは、室町殿が創出した文化的主導権を確認するためのイメージ戦略だったのではないかと考える。義持以降の室町殿は、国際政治上の「日本国王」などではなく、徽宗皇帝のごとき皇帝(風流天子)になることを夢見ていたのではないか。これは全面的に納得。

 非常に具体的な問題としては「渡唐天神説話の源流と流行」も面白かった。先日、正木美術館で、遣明僧が中国で賛を書き入れてもらった渡唐天神像というのを見たばかりだったので、彼の地(中国)で日本人向けに渡唐天神像のコピーが作られ、売られていたという話に苦笑してしまった。文明年間に遣明船に乗じて水牛が輸入され、幕府に献上されたということにも驚いた。これも一種の「唐物」である。

 さらには、銭も唐物(輸入品)である。九州国立博物館に展示されている福岡県糟屋郡中久原一括出土銭(9万枚を超す、写真あり)は、東博所蔵品で、九博開館準備中に東博収蔵庫内で「発見」されたのだという。ええ~。2000年代に入ってからかな。博物館内でもそんなことがあるんだ。次に九博に行ったら、よく見てこよう。永楽銭をめぐるさまざまな伝説、日本人僧が「永楽通宝」の文字を揮毫したとか、鳴海家が模造を認められたというのも興味深かった。

※関連:小島毅『足利義満 消された日本国王』(光文社新書)光文社 2008.2
本書の著者には嫌われそうだけど。
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白洲正子のように/近江観音の道(淡海文化を育てる会)

2011-05-18 22:57:45 | 読んだもの(書籍)
○淡海文化を育てる会編『近江観音の道:湖南観音の道・湖北観音の道』(近江歴史回廊) サンライズ出版 (発売) 1999.12

 『近江の祈りと美』に続き、サンライズ出版さんの本を取り上げるのは2冊目である。これは、世田谷美術館の『白洲正子』展に行ったとき、ミュージアムショップで買ったもの。どこから読んでもいいガイドブックなので、眠くなるまで布団の中で眺めたり、トイレに持ち込んだり(笑)している。

 大きくは二部構成で、「湖南観音の道」と「湖北観音の道」を紹介する。私はどちらも好きだが、どちらも十分には回り尽くしていない。「湖南」で行ったことのあるお寺は、岩間寺・石山寺・園城寺・常楽寺・長寿寺・善水寺・櫟野寺。「湖北」は、宝厳寺・向源寺・赤後寺・石道寺・鶏足寺など。他県の人間としては、回っているほうだと思うが、まだまだ。本書を読みながら、未踏の観音霊場に想像を広げている。

 一般の観光ガイドに載らないようなお寺も、最近はネットで、いろいろ情報収集ができるようになった。しかし、あまりにも完璧に情報を得て訪ねるのはつまらない。行ってみて初めて、え、こんなところだったのか!という驚きを味わいたい。しかし、何も手がかりがないのでは、そもそも「行ってみたい」という気も起らない。というわけで、こういうガイドブックは、やっぱりありがたいと思う。奥付を見ると、滋賀県内の博物館や市史編纂室におつとめの方々が著者に名前を連ねている。当然、歴史文化財についての情報は正確で詳しいが、専門的になり過ぎず、文章は平易で読みやすかった。

 本書を眺めながら「行ってみたい」気持ちが刺激されたのは、まず、安養寺(立木観音)。関東人には縁が薄くて、よく知らなかったが、今も生きた信仰を集めるお寺のようだ。芦浦観音寺は、これまで興味のなかったお寺だが、本書を読んでいて行きたくなった。しかし、検索してみたら「本寺の拝観は予約制にさせていただいております」と書かれたホームページに当たって、ガッカリ。聖衆来迎寺は8月16日の六道絵虫干しをねらって行きたい。私は古建築も好きなので、寺庄(甲南町)の六角堂も見てみたい。

 湖北の浄信寺(木之本地蔵院)の地蔵縁日の写真にも惹かれた。近江といえば観音の里、と反射的に思い浮かぶが、地蔵信仰も盛んだったように思う。いつか白洲正子のように、近江の古寺社を隅々まで訪ね歩くのが私の願い。とか言いつつ、5月の連休関西旅行も、滋賀はMIHOミュージアムしか行かれなかった…。

※上記画像は、サンライズ出版のサイトから借りてます。
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逝きし世の旅人/パネル展・オイレンブルク伯爵のみた幕末の江戸(江戸博)

2011-05-17 22:06:28 | 行ったもの(美術館・見仏)
江戸東京博物館 特集展示『オイレンブルク伯爵のみた幕末の江戸』(2011年5月1日~5月29日)

 江戸博の常設展エリアで行われる特集展示を、私はけっこう楽しみにしている。本展は、日独交流150周年を記念し、万延元/1860年、プロイセン政府から派遣されたオイレンブルク遠征隊の特集。

 オイレンブルク伯爵(Friedrich Albrecht zu Eulenburg, 1815-1881)は、通商条約の締結のため、日本をはじめとする東アジア諸国に派遣された外交官で、帰国後、その公式記録は『オイレンブルク日本遠征記』(日本語訳)として出版された。本展は、同遠征隊が撮影した写真4点と、公式画家として随行したベルク (Albert Berg, 1825-1884)が描いた絵画22点(うち8点は彩色)をパネルで紹介するもの。近代の資料はパネル(複製)でも十分楽しめる。

 万延元年(1860)の写真に残る江戸の風景(王子、石神井川岸など)は、私の記憶する1960年代初頭の東京下町と、あまり変わらないような気がした。帯刀したお侍が写っているのが不思議なくらいだ。

 美しいのは、画家のベルク描く江戸の風景である。豊かな緑、高く抜ける青空、木陰に潜むように暮らす人々。典型的な東洋人顔に描かれてはいるが、悪意は感じられない。そして、遠征記の本文なのだと思うが、パネルに添えられた文章がいい。「農業は日本では名誉ある職業とされている」「日本人は樹木を非常に大切にする」「どの農家の傍らにもある竹林は日本の風景に大きな魅力を与えている」等々。これは、森を愛するドイツ人ならではの観察と理解ではないかなあ。なかでも私が感銘を受けたのは、「日本で最も美しいものの一つに墓地がある」という一文。私も同感だが、この感覚、いまの日本人にどのくらい通じるだろうか。 

 私が気に入った絵は、新宿十二社(じゅうにそう)の森。水上に張り出した粗末な小屋掛けは、東南アジアの風景のようだった。神奈川(相模湾)から見る、薔薇色に染まった富士の美しいこと(ちょっと山頂が尖り過ぎだが)。

 オイレンブルクのことを調べていたら、『逝きし世の面影』にたびたび引用されているようだ。ああ、なるほど。あの美しい本にぴたりとくるような文章と絵である。
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竜頭蛇尾でもいいじゃない/五百羅漢(江戸東京博物館)

2011-05-17 00:12:47 | 行ったもの(美術館・見仏)
江戸東京博物館 特別展『五百羅漢-増上寺秘蔵の仏画 幕末の絵師 狩野一信』(2011年4月29日~7月3日)

 予定より大幅に長引いたシンポジウムを聞き終え、いよいよ会場に入って、第一の展示ケースの前に立つ。

 増上寺に伝わる狩野一信筆『五百羅漢図』は全100幅。だいたい画面は172cm×85cmくらい。表具を入れると縦は3メートルを超える。基本的に2幅ずつ対になっているので、展示も、この対を崩さぬように配慮されている。したがって、私が最初に目の前にしたのは、第1幅(右)と第2幅(左)。前景には、各々五人の羅漢さんと数人の従者、童子など。遠景には、楼閣、海、山容が描かれ、雲のたなびく青空が広がっている。この青空が、まことに涼しげで美しかった。シンポジウムで、安村敏信先生と山下裕二先生が「本物は、意外と色彩がアッサリしている」とおっしゃっていたことに納得する。絹本の特性であり、裏彩色の効果でもあるらしい。

 いま、江戸博の図録を広げて、この文章を書いているのだが、私の記憶に残っている青はこんな色じゃない、と思う。第1~20幅あたりまでは、とにかく細密。羅漢たちの袈裟や衣はもちろん、調度品、カーテン、テーブルクロス(?)など、あらゆるものが精緻な文様で埋めつくされている。さらに、人物の髭や頭髪、皺、爪、歯、種類の異なる様々な植物の描写も細かい。

 第21~40幅は六道めぐり。最初の「地獄」もすごいが、私は「修羅」が好きだ。「人」は石橋の美しさに惹かれる。第41幅からは再び羅漢の修行生活が描かれる。第61~70幅は「禽獣」。一信は人物画が得意だったというが、動物を描くのも好きだったのではないか。私は、比較材料としては、『寧波』展で見た大徳寺の五百羅漢図しか知らないが、あれはもっと淡々と羅漢たちの日常生活を描くのみで、こんなに動物は登場しなかったと思う。いや、そろそろ羅漢の顔が変わってくる感じもするので、動物ネタに頼ろうとしたのは弟子の一純かもしれない。しかし、どちらにしても、画面のあちこちに見え隠れする動物はかわいい。私は第69幅の、じじむさい顔をした白澤(麒麟じゃないよ~)、第70幅の羅漢さんに抱かれた白黒のモルモット(?)、第66幅の画面奥に小さく描かれたミミズク、童子になつくモモンガも好きだ。

 第81~90幅は、黒一色の背景に浮かび上がる、陰鬱な「七難」の図。しかし、前半の「地獄」の迫力には及ぶべくもない。第91~100幅、四洲の南→東→西→北をまわって幕。次第に画面の遠景(雲の上)に追いやられた羅漢の姿は、いよいよ小さくなるばかり。人物も建物も、かなり頑張って描いているんだけど、どう見ても素朴絵並みに下手だ。「この寂びしげな結末を、果たして一信自身、どれほど見届けることができたのか」という図録の評語が感慨深い。「竜頭蛇尾」という一語が去来する。でも、竜頭蛇尾というか、最後がデクレッシェンドでない人生を送れる人間なんて、どれだけいるものか。栄枯盛衰を直視するのはつらくても悲しくても、全100幅を通観することの意義は大きいと思う。長編小説を読み終えた、あるいは長い交響曲を聴き終えた気分。

 なお『五百羅漢図』に勝るとも劣らない圧巻は、成田山新勝寺の『釈迦文殊普賢四天王十大弟子図』である。金地の紙本に水墨で描いたもの。照明が凝っていて、ゆっくりと暗くなったり明るくなったりするに連れ、仏菩薩たちの姿がはっきり浮かびあがったり、虹色の光輪に溶け出していったりする。素晴らしい! この1作品だけを4トン車で借りに行ったというが、その価値は十分にあったと思う。

 それから、一信の五百羅漢図には、大地に身体をかがめて礼拝する羅漢の姿がところどころに見え、印象的だった。一信の信仰心をあらわしているのではなかろうか。普通の羅漢図(たとえば大徳寺本)には、こういう姿の羅漢は、あまり描かれないものではないかと思う。

※おまけ:会場出口の外、みやげもの売り場の奥の壁に貼られていた手づくりの「羅漢新聞」。





5/7(土)に行われたトークショー「羅漢応援団、狩野一信を応援する」の特集らしい。



今頃は、5/14(土)のシンポジウム特集号も貼られているのかな。見に行きたい。
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シンポジウム・知られざる幕末の絵師 狩野一信(江戸東京博)

2011-05-16 00:22:56 | 行ったもの2(講演・公演)

江戸東京博物館 シンポジウム『知られざる幕末の絵師 狩野一信』(2011年5月15日、13:30~15:30)

 まずは長い前置きから。特別展『五百羅漢』関連イベントのシンポジウムに行ってきた。展覧会は、当初3月15日~5月29日で予定されていたが、3月11日の地震発生により、開催を延期。往復葉書で参加者募集中だったイベント情報もプッツリ絶えてしまったので、まだ申し込みをしていなかった私は、どうしたものか、困っていた。4月も半ばになって、ようやく4月29日から開館が決まり、関連イベントも日を改め、「当日先着150名様に整理券配付」という告知がホームページに載った。

 11時から整理券配付。1時間前に行けば大丈夫だろう、と判断し、朝ごはんもそこそこに家を出る。千葉市美術館の若冲展みたいに、そのまま会場に軟禁ということもあり得ると思い、途中で菓子パンを買って、バッグに放り込んでおく。博物館に到着すると、会場となるホールには、まだ看板も出ていない。チケット売り場で「今日はイベントがあるって聞いたんですけど」と聞いてみると、「11時少し前になると列ができると思いますので」という、のんびりしたお返事。拍子抜けして、ロビーの椅子で菓子パンをかじりながら待つ。まあ普通はこんなものか…。千葉の若冲展がいかに異常だったかを思い知る。

 結局、11時に並んだのは数十人。整理券配付とともに「入場は13時20分からです」と申し渡された。そうすると、少し早目に戻ってまた並ばなければならないし、今から2時間で特別展を見るのはキツイと思い、食事を済ませ、常設展ゾーンで開催中の特集展示『オイレンブルク伯爵のみた幕末の江戸』を見にいく。これはこれで面白かったので、別途レポートの予定。

 午後1時過ぎにホール前に戻ってくると「葉書申し込みの列」「当日整理券の列」がそれぞれ出来ていた。葉書の方々から先に入場。当日整理券はまだ残っていたようで、しかも整理券番号に関係なく、この列に並んだ順で入場だった。朝10時に来る必要はなかったわけだが、どうしても聴きたいシンポだったので、文句は言いません。

 第1部は、2名の講師の報告から。

・高橋利郎(大東文化大学准教授)

 最近まで成田山書道美術館の学芸員をしていた高橋さんは、成田山新勝寺が所蔵する狩野一信作品の保存・伝来状況について報告。今回出陳されている『釈迦文殊普賢四天王十大弟子図』『十六羅漢図(双幅)』ほか、天井画、紙本風神雷神図(板壁に貼られている)など、全て現在の釈迦堂(旧・本堂)に伝わっているという。

・佐々木英理子(板橋区立美術館学芸員)

 佐々木さんは、五百羅漢図以外の一信作品について概説。見つかっている作品は20点ほどとか。北海道・留萌の厳島神社の絵馬、浅草寺の絵馬など。また、逸見(へんみ)家資料から発見された一信の日記について、画業への精勤ぶりを報告。

 第2部は、安村敏信(板橋区立美術館館長)、山下裕二(本展監修者・明治学院大学教授)が加わる。進行役の山下先生に促されて、安村先生が口火を切る。これまで増上寺の五百羅漢図を全て実見したのは、慶応大学の河合正朝氏だけと言われてきた。河合さんがまとめた港区教育委員会の報告書(昭和58/1983年刊、モノクロ写真収載)が、公刊されている唯一の資料だった。昭和60/1985年、ある骨董屋で一信の源平合戦図屏風(裏は龍虎図)を発見し、板橋区立美術館で購入し、あとで富山の城端町(じょうはなまち)から出たものと分かった。

 2004年、別冊太陽『狩野派決定版』に山下さんと二人で一信作品の紹介を書いたが、「ずいぶん間違ったこと書いちゃったんだよねー」と豪快に安村先生。一信は謎の多い画家で、生年は文化12年と考えられてきたが文化13年(1816)らしいこと、逸見家に養子に入る前の姓が分からないこと、”狩野派”というが誰を師匠にしたか分からないこと(寿信(としのぶ)か章信(あきのぶ)か)、そもそも増上寺本『五百羅漢図』が、一般には96幅まで一信が描いたと言われているが、どう見ても90番代の筆力の衰えは、他人の作ではないかと思われ、誰が描いたか分からないこと。養子であり、一番弟子の一純(かずよし)筆という説もあるが、東博本『五百羅漢図』が一純筆と推定されており、「増上寺本の90番代は東博本より腕が落ちる」ことから、再考せざるを得ないこと(最後は、安村先生と山下先生、苦笑しながら、でも楽しそうに顔を見交わしていた)。

 お二人は、これまで一信を紹介するにあたり、キッチュな面(異様さ、毒々しさ、俗悪さ)を強調してきたが、現物を目の当たりにすると、意外とそういう印象が薄い、とうなずき合う。辻惟雄先生も会場に見えて「実物を見ないと分からんねえ」とつぶやいておられたとか。

 辻先生のお名前から若冲の話になり、若冲も『動植綵絵』30幅を40代の10年間かけて描いており、人生50年と考えられていた当時、最後に自分の納得できる仕事を残し、寺に寄進したいという気持ちは、共通していたのではないかと山下先生のコメント。続けて、江戸の人々の宗教心を探るために、山下先生が始めた「全国五百羅漢行脚」の写真レポート。大分・耶馬溪の羅漢寺は「どうせ江戸モノだろうと行ってびっくり、これは中世まで遡るでしょう」とのお話に、見仏好きの血が騒ぐ。あと、わざわざ紹介いただいた”五百羅漢幼稚園”は、かなりツボでした。トマソン的に。

 こういう展覧会が行われることで、新たな一信作品の発見も期待されるとのこと。実際、展覧会の企画進行中に、徳川記念財団蔵の『東照大権現像』や個人蔵『村林彦治郎像』が発見された。特に後者は、写真を見る限りでも、煙草入れや火鉢(?)の立体感が出色。村林彦治郎が何者かは不明。画幅には「ゆっくりとゆかばや花の西日(いりひ)かな」という発句が記され「平賀」と署名されている。山下先生は「煙草入れを持つ男性像、平賀とくれば、源内だと思ったんだけどね」とおっしゃり、佐々木英理子さんは「平賀元義では?」なんておっしゃっていたけど、元義は歌人だから発句は詠むかなあ。どちらにしても、発句に姓で署名はしないと思うので、署名が「平賀」としか読めないかどうか、書に詳しい高橋さんに聞いてみたかった。あとで日文研の俳諧データベースを検索してみたが、特に類例なし。

 最後に「展覧会はまだ続きますが、これで大きなイベントを全て終え、私の仕事も一区切りです」と挨拶をされた山下先生、少し感極まっておられたのではないかと思う。本当にお疲れ様でした。私は『日本美術応援団:オトナの社会科見学』(中央公論社 2003.6)で増上寺五百羅漢図の存在を知って以来、この日を夢見てきた一読者だが、本当に「ドリームズカムトゥルー」の展覧会だった。

 まだ過去形にしてはいけない。続いて展覧会レポートだが、15時30分閉会予定のシンポジウムが終わったのは16時。閉館は17時30分。脱兎のごとく、展覧会会場に向かったのである。以下、別稿。

※過去の一信関連記事
東京国立博物館 特集陳列『幕末の怪しき仏画―狩野一信の五百羅漢図』(2006-02-18)
府中市美術館 企画展『亜欧堂田善の時代』(2006-03-12)
お盆旅行(3):嵯峨野~清涼寺~一条通(2009-08-20)※京都・清涼寺で一信筆(?)羅漢図を見る
栃木県立博物館 平成21年度秋季企画展『狩野派-400年の栄華-』(2009-11-18)
板橋区立美術館 江戸文化シリーズNo.26『諸国畸人伝』(2010-09-11)

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母になるオスカル/テンペスト(池上永一)

2011-05-14 01:10:02 | 読んだもの(書籍)
○池上永一『テンペスト』1~4(角川文庫) 角川書店 2010.8-11

 時は19世紀、琉球は第二尚氏王朝第18代尚育王の御世。首里の孫家にひとりの女子が生まれおちる。母親は難産に耐え切れず世を去り、男子を待ち望んでいた父親は、名前をつけることも忘れ、娘の養育を放置してしまった。しかし、少女は自ら「真鶴」と称し、兄よりも聡明に育つ。やがて父が用意した「孫寧温」という男性名を選び取り、清国生まれの宦官と偽って、王宮の若きエリート官僚となる。

 孫寧温のよきライバル、同僚の喜舎場朝薫。真鶴の女心を騒がせる薩摩士族の浅倉雅博。王宮の「外」=男たちの政治と外交の世界は、次第に押し寄せる近代化の波に揺れ、王宮の「内」=女たちの世界では、他愛ない、しかし壮絶な意地悪合戦が繰り広げられる。

 全4冊。好みの問題だと思うが、私は2冊目までは、あまり面白いと思わなかった。王妃と聞得大君(きこえのおおきみ、国王のオナリ神)の暗闘、清国から来た淫蕩な宦官・徐丁垓と寧温の死闘など、ファンタジー要素が濃厚で、辟易した。女の真鶴が男(宦官)孫寧温になり切って、疑いの目を挟ませないという設定も、受け入れにくい。

 3冊目、徐丁垓殺害の嫌疑で八重山に流罪となった真鶴は、しばし女に立ち戻る。そして、ひょんなことから、第19代尚泰王の側室(あごむしられ)として王宮に復帰し、昼は官僚・孫寧温、夜は側室・真鶴として二重生活を送ることになる。後半の二重生活の描かれ方のほうが、コメディタッチで面白かった。真鶴の親友となるお嬢様・真美那の造型も、ほっと和んで愛らしい。

 そして、後半は、ペリー艦隊の寄港、明治維新、維新政府による台湾出兵、琉球処分など、歴史イベントが随所に織り込まれて、登場人物たちの歴史的な立ち位置がようやく明確になる。やっぱり私は、雰囲気だけを歴史上のある時期に借りた「時代小説」よりも、重要な歴史イベントに絡む「歴史小説」のほうが好きなのだ。また、前半で退場したと思った人々が、善玉悪玉問わず、忘れた頃にしぶとく戻ってくるのもよかった。

 男の人生を生きようとした女性の物語といえば、私の年代には「ベルサイユのばら」である。オスカルは、ひととき女性の幸せを夢見るが、最後は男として、武人として、革命の中に死を選ぶ。真鶴は、なんと母となって、息子を育て上げ、「国は滅びても民は残る」ことを学び取る。かつての同僚・朝薫が、国家の解体に殉じたのとは対照的だ。最後はかなりアクロバティックなハッピーエンドだが、厭味はない。

 なお、そもそもこの小説を読もうと思ったのは、今年7月からNHK BSプレミアム(見られないorz)で放映が始まると聞いたためである。脚本は『風林火山』『TAROの塔』の大森寿美男氏ということで、大いに期待している。期待しすぎて怖いくらいだが、まあ、そこそこいい作品になってほしい。

NHK BS時代劇「テンペスト」公式サイト
まだ情報は少ない。

角川書店:トロイメライ&テンペスト(池上永一)
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坂か階段か/東京の階段(松本泰生)

2011-05-12 22:47:04 | 読んだもの(書籍)
○松本泰生『東京の階段:都市の「異空間」階段の楽しみ方』 日本文芸社 2007.12

 先だって『タモリのTOKYO坂道美学入門』(講談社、2004)を購入するとき、そばにあった本書を一緒に買ってしまった。出版社は違うが、よく似たつくりの本である。東京の名階段126件が、写真と文章で紹介されている。

 面白いのは、坂には名前があるが、町の中の階段には、多くの場合、名前がないことだ。だから紹介のしかたは「東洋美術専門学校そばの階段」とか「TBS南側の長い階段」とか「市谷薬王寺町の小さなS字階段」といった具合の表記になる(データとして所番地が添えられているから、地図で探せば間違えることはない)。固有名詞が冠せられている場合は「曙坂」「炭団坂」「庚申坂」などで、「○○階段」とは呼ばない。このへんの事情は、巻末の「階段の移り変わり」に詳しく、江戸期においては、階段は「坂」の範疇と考えられていたという指摘に、なるほど、と思った。ちなみに「九段坂」「梯子坂」「雁木坂」などは、もと階段であったことを示す名称だという。

 私は、歩く(登る)なら階段より坂道を選ぶが、眺める対象としては、階段の写真のほうが好きだ。本書を見ていて、私は自分が階段萌え(!)であることに初めて気づいた。坂は自然の景観としてそこにあるが、階段は人間が手を加えなければ生まれない。けれども、はじめは意図的に設置された階段も、年月とともに磨滅し、自然の風景に同化していく…その無常感が好きなのかもしれない。

 不思議なことに、坂道の写真は、人の姿がないほうが美しく見えるが、階段の写真は、適度に人が写り込んでいるほうが魅力的である。これも階段が、より人工的な性質をもつためではないかと思う。

 それから、子供の頃から二階のある一軒家で育った私にとって、なんとなく階段は「私有物(私的空間)」のイメージがある。階段は「家の中」あるいは、寺や神社など「敷地の中」がふさわしいと思うのだ。それが、無縁の人々の行き交う町中にむきだしで現れると、奇妙な倒錯感が湧き上がる。これも東京の階段の魅力の一ではないかと思う。

 私が好きなのは「六本木・閻魔坂近くの階段」「薬王院西側の階段」みたいに、途中の踊り場で角度や傾斜を変えながら、だらだらと続く階段。見通しのきかない階段がいい。愛宕石坂みたいに堂々と直線的な階段は、見上げるだけで疲労感に襲われそうで、いくら歴史があっても勘弁である。鴎外の小説で名高い「鼠坂」も載っていて、ドキリとした。

 なお、本書は建築学科出身で、現在も都市の景観研究を専門とする著者の博士論文をもとにしたもの。著者の現在のホームページ「Site Y.M. 建築・都市徘徊」はこちら
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醤油がいちばん/拙者は食えん!(熊田忠雄)

2011-05-11 00:09:48 | 読んだもの(書籍)
○熊田忠雄『拙者は食えん!:サムライ洋食事始』 新潮社 2010.4

 冒頭、著者がヨーロッパ旅行で一緒になったという、70代半ばの男性のエピソードに微笑んでしまった。海外旅行が趣味で、ひとりでツアーに参加している元気な男性であったが、パンや肉料理が口にあわず、スーツケースにぎっしり日本食を詰めて持ち歩いていたのである。いるいる、こういうお爺ちゃん・お婆ちゃん。外国語を取得したり、外国文化になじむことはできても、刻印された「味覚」までは変えることができないのだろう。

 本書は、開国直後から明治初年に海を渡った日本人の「洋食との格闘シーン」をたどった労作。著者も書いているとおり、開国直後に海を渡った男たち(ほとんどが「武士」である)が、「食」について、これほど多くの記録を残しているとは、ちょっと意外な感じがした。もちろんその多くは、『西洋事情』のような公刊の著作ではなく、私的な日記や書簡のかたちで残されたものだ。巻末の参考引用文献一覧を眺めていると、広汎な資料を渉猟した著者の苦労もさることながら、日本人って日記(記録)好きだなあとしみじみ思う。

 記録せずにいられなかった渡航者たちの気持ちも分かる。当時は、アメリカにしろヨーロッパにしろ、到着まで何十日もかかる船旅で、その間、逃げ道はない。味覚を克服して、あてがわれる「洋食」に馴染まなければ、飢えて死んでしまう。彼らにとっては、文字どおり決死の格闘であったことだろう。笑ってはいけない。バターや牛乳の臭いは徹底的に呪われている。食事の味付けが「薄い」「甘い」という不満も多い。醤油が何より恋しくなるようだ。遣米使節団のひとりは、帰路、「一同醤油を欲する、大旱ノ雨を望むが如し」と日記に記している。その一方で、アイスクリームや果物、シャンパンなどの「甘味系」が、おおむね好評なのも面白い。

 私は、遣米・遣欧使節団が、実際にどういう航路をたどったか、本書を読んで初めて認識した。遣米使節団って喜望峰まわりで帰ってきたのか。ジャワ島のバタビアで、オランダ商人が持ち込んだ醤油を入手することができたときは、ほとんど全員がそのことを日記に留めているという。嬉しかったんだなー。アフリカでは、日本語の分かる果物売りに出会ったりもしている(玉虫日記)。

 遣欧使節団は、オランダのハーグで「日本屋」という商店を見つけ、日本の醤油を発見する。これも嬉しい驚きだったろうなあ。在欧日本人などいなかった時代だから、日本滞在中に醤油の味を覚えたオランダ人のために売られていたのだろうか、と著者は推測している。当時の地球の「広さ」と「狭さ」を随所に感じることができる。やっぱり、食いものの話は面白い。
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平成23年新指定重要文化財など(東京国立博物館)

2011-05-09 23:52:21 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立博物館・本館特別1室・特別2室 特集陳列『平成23年新指定重要文化財』(2011年4月26日~5月8日)

 関西旅行から帰った週末、これだけは見ておかなければ、と慌てて駆けつけた特集展示。個人的に面白かったのは、まず対馬藩作成の『朝鮮国書』(京都大学総合博物館蔵)。 2007年の高麗美術館・特別展などで何度か見ているが、とうとう重文になっちゃったかーと感慨深かった。展示品は、万暦35年(1607)宣祖(李昖)が秀忠に宛てたことになっている。「貴国改前代之非、行旧交之道、苟如斯、則豈両国生霊之福也」。日本が朝鮮侵攻の非を悔いて旧交之道に復するのは、両国の人民によって幸いである、みたいな意味だろうか。対馬藩が作文しているのだけど。

 隣りには東博所蔵の『朝鮮国書』(崇禎16年/1643、仁祖→家光宛て)が並べてあって、これはホンモノらしかった。朝鮮国書には「為政以徳」の印を押すのだが、本物の印のほうがひとまわり大きく、字体も複雑。さらに補筆して印影を整えるのが慣例だが、偽国書はこれを全く怠っている。いい加減だなー。また、本物は楮紙(こうぞ)だが、偽国書は竹紙と楮紙の貼り合わせなのだそうだ。宛名は、本物は「日本国大君殿下」、偽国書は「日本国王殿下」を用いているが、これは時代差のためらしい(1636年以降「大君」号が正式使用となる)。

 鎌倉国宝館の『円覚寺仏殿造営図』が重文になったのは、関東人(もと神奈川県民)としてうれしい。それから、国立天文台の子午儀(パネル展示のみ)が重文指定になったのも、もと関係者としてうれしい。(株)ライオン創業者の小林富次郎(1852-1910)の葬儀を記録した映画フィルムには見とれた。明治末年のフィルムが残っていただけでも驚きだが、そこに撮影されている内容をよみがえらせる技術ってすごいなあ。

 仏像(彫刻)では、岡山・大賀島寺の千手観音立像が異色。腰の前で合掌するのでなく、両手を交差(?)させるようなポーズをとる。膝を曲げて左足を少し浮かせ、斜め懸けの天衣が左右非対称を強調する。顔や腕に比べて、手首から先が大きく、インド舞踊の図みたいでもある。滋賀・千手院の千手観音像は本尊の御代仏(御前立ちみたいなもの?)だが、調べたら本尊より制作年代が古かったそうだ。→写真と詳細は、神奈川仏教文化研究所(特選情報2011/3/23)にあり。

対馬市福岡事務所レポート(2010年08月27日)
たまたま見つけたサイト。対馬宗家に伝わる「為政以徳」印を「対馬の活性化に利用できそうな気がしませんか」って紹介しているけど、これって公文書偽造の証なのだが…いいのだろうか。

■本館 2室(国宝) 『善無畏像・慧文大師像』(2011年4月19日~5月29日)

 兵庫・一乗寺蔵の『聖徳太子及び天台高僧像』は、なかなか見ることのできない優品。全然、型に嵌っていないところが慕わしい。子どもが、いつも慣れ親しんでいるお父さん・お母さんを、自由に描いてみた絵のように思える。

■平成館・企画展示室 企画展示 特集陳列『拓本とその流転』(2011年3月15日~5月15日)

 先だって、京博の特別展『筆墨精神』で、目玉中の目玉扱いされていた上野本『十七帖』が、さりげなく来ていた。王羲之『十七帖』だけで他に3種も並んでいて、びっくりした。こんなにあるのか。それにしても、失われやすい文字の姿を永遠に残すため、碑刻という方法が行われたわけだが、拓本だけ残して失われた碑が多いことを知って、歴史の冷酷さを感じてしまった。
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黄金週2011関西遊(5/2):利休屋敷跡、南宗寺

2011-05-08 20:29:06 | 行ったもの(美術館・見仏)
最近、本格的に茶の湯に興味が出てきたので(実践はしてないけど)千利休が生まれた堺を訪ねてみた。屋敷跡には、利休が産湯をつかったともいい(現地の立て札)、また茶の湯に常用していたともいわれる(別の立て札)「椿の井」が残る。



少し歩くと南宗寺。三千家家元の供養塔が立ち、中央のひときわ高い石塔が利休の供養塔。



その隣り、武野紹鴎(利休の師匠)の墓。



※参考:堺観光ガイド(音が出ます)
チンチン電車が走っていて足回りもよく、古代・中近世・近代、それぞれの見どころがあり、銘菓も豊富。また時間をとって訪ねてみたい。本家小嶋の芥子餅が目当てだったんだけど、月曜休で手に入らず…。残念。


コメント (2)
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