平成27年(2015)弘法大師『空海』が高野山を開創し1200年を迎えました。
6時起床。宿坊と聞くと寒いイメージがありますが、部屋の中はとても暖かく快適に過ごせました。 6時半、宿坊「上池院」本堂にて朝のお勤めに参列し、本堂右手で三鈷(さんこ)を持ち鎮座されます金色大師尊像様にも礼拝してきました。
その後、7時より朝食となり、8時 地元のガイドさんと共に霊場「高野山参拝巡り」に出発しました。
例年は雪が多く、堂宇の軒下には近寄れないとのことで、ロープが張られていましが、暖冬は高野山も同じで、雪はほんの少し見られただけでした。
弘法大師が遥か都を離れ、しかも標高 約900mの山上である、この高野山を発見されたことには古くから伝えられる物語があります。 (大晦日の「行く年来る年」で聞く大塔の鐘)
それは、弘法大師が2ヵ年の入唐留学を終え、唐の明州の浜より帰国の途につかれようとしていた時、伽藍建立の地を示し給えと念じ、持っていた三鈷を投げられた。 その三鈷は空中を飛行して現在の壇上伽藍の建つ壇上に落ちていたという。
弘法大師は この三鈷を求め、今の大和の宇智郡に入られた時、異様な姿をした一人の猟師にあった。 手に弓と矢を持ち黒と白の二匹の犬を連れていた。 弘法大師は その犬に導かれ、紀ノ川を渡り険しい山中に入ると、そこでまた一人の女性に出会い「私はこの山の主です。あなたに協力致しましょう。」と語られ、更に山中深くに進んでゆくと、そこに忽然と幽邃(ゆうすい)な大地があった。
そして、そこの1本の松の木に明州の浜から投げた三鈷がかかっているのを見つけ、この地こそ真言密教にふさわしい地であると判断し この山を開くことを決意されました。 (「三鈷の松」とは、松葉が三本という珍しい松で、大師がお投げになった三鈷が掛かっていたと伝えられる松。)
高野山は平安時代のはじめに、弘法大師によって開かれた日本仏教の聖地です。
「金剛峯寺」という名称は、御大師様が『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)』というお経より名付けられたと伝えられています。
東西60m、南北約70mの主殿(本坊)をはじめとした様々な建物を備え、境内の総坪数は48,295坪の広大さと優雅さを有しているとのことです。
総本山「金剛峯寺」という場合は、金剛峯寺だけではなく高野山全体を指すようです。
普通、お寺といえば一つの建造物を思い浮かべ、その敷地内を境内といいますが、ここ高野山は「一山境内地」と称し、高野山の至る所が お寺の境内地であり、高野山全体が お寺だそうです。
山内に点在する お寺は、塔頭寺院といい、御大師様の徳を慕い、高野山全体を大寺に見立て、山内に建てられた小院を指すようです。 現在では117ヵ寺が存在し、そのうち52ヵ寺は宿坊として、高野山を訪れる私達のような参詣者に宿を提供して下さっております。
参道入口、一の橋から弘法大師御廟までの約2kmの参道両側には、樹齢数百年の杉の大樹と共に歴史に名を残す諸大名などの20万基を超える墓碑や供養塔が立ち並んでおり、大師信仰の厚さをうかがわせます。
大師御廟や燈籠堂に近い御廟橋からは霊域に入るので、ガイドさんより『服装を正し脱帽、写真撮影は禁止』と聞き、清らかな気持ちで礼拝し御廟を参拝しました。
ここ高野山では弘法大師『空海』が永遠の悟りの世界に入り、今なを高野山 奥の院で生きていると信じられています。 ですので、これを「死去」とは言わず「入定」と言うようです。 この事は高野山の信仰が今も生きている事を意味し、そしてこれは世界的にも珍しい信仰とのことです。 日本国内だけでなく、世界遺産登録後ヨーロッパからの観光客が増加し続けているのは、こうした独特の精神世界によるものだと言われています。
この世界的にも珍しい高野山へ、是非 御参拝を
今日、平成28年3月6日(日)午後12時半より高野山春の山開き「高野の火まつり」が開催され、丁度 山伏による霊場開きの行列が始まり、それを見て帰途に着きました。
小生、昨年夏に行き、高野山にある武将の供養塔は圧倒されました。たーさんの説明文を行く前に知っていたら、、、、
何時もブログ楽しみです。
お声がけ、ありがとうございます。
私は初めての参拝で、九度山の慈尊院から歩いて登拝しました。高野山の尊厳の高さを思い知らされました。
ですから名のある歴史上の人物は高野山を目指すのですね。
アチコチ、プラプラしています。また、訪問して下さい。
お待ちしています。