この世の全ては、一人の可愛い女がいれば大抵どうでも良くなる。
明治38年1月。日本とロシアは奉天で激戦を繰り広げていた。日露戦争最大の陸戦、奉天会戦である。
騎兵隊の新田中尉は愛馬の出番も無いまま、黒溝台の塹壕で中隊の指揮を執り、数で遙かに優勢なロシア軍の猛攻をくい止めていた。増援も弾薬も不足しがちであったが、それが当時の日本という国の限界だった。
会戦は終始ロシア軍優勢のままではあったが、ロシアの国内状態に助けられる形で勝利することとなり、やがて戦争も日本の勝利で終わった。
ところが終戦後、ロシア皇帝から日本の将官に対して勲章が授与されることとなり、それだけでも日本人としては考えにくい話であったのに、なぜか、一介の騎兵将校にすぎない新田に対しても勲章が与えられるという……。
コサックの公女オレーナに協力し、極東にコサック国家を建設するため大陸に渡ることとなった日本人の冒険譚……という触れ込みで読み始めたら、初っぱなから始まった奉天会戦が全然終わりません。日露戦争最大の激戦に、手に汗握りながらだいたい半分くらいまで一気に読み進め、そこから急転直下のお姫さま登場、そしてまたまた伊藤さんちの登場で息つく間もなく読了。
「幸せになってください。そのための手伝いならば、喜んでやります。誰かと戦うのなら自分が戦いましょう。守れと言うなら守ります。国を盛り立てろというのであれば、かならずや。でも、それは貴方のためです。他に望むものは、ありません。何もありませんでした。欲しい物がそんなにない人生だったのです」
帝国陸軍騎兵大尉である新田良造は、若きオレーナ・オリャフロージュスカ・アポーストルに対してそう告げた。「幸せになってください。それを以て我が報酬とします」。
この話がどういう話で、登場人物がいかなるメンタリティの持ち主か知らしめる一言です。
芝村作品の主人公はいつも思考が明晰で、つねに目標がきちんと設定されていて、それを達成するために必要なこと、切り捨てるものを自分の中で仕分けたら、あとは一直線。どんなに途方もない目標であっても、最初の一歩を踏み出したら後は一歩ずつ前進するのみ。それがどんな波瀾万丈な道程になろうと振り返らない……というあたりが読んでいて気持ち良いのですが、ここではさらに迷いの無さが明瞭となります。
軍を辞するのはその直前に腹を決めていたとはいうものの、少女の求めに応えて日本を捨てて大陸に渡り、ロシア帝国の版図でウクライナ・コサック再興のために戦って欲しいと言われて即決で快諾しちゃいますし、目の前に立ちふさがった相手を敵と判断するや反射的に切り伏せる迷いの無さは現代人では難しかろうと思います。へたにやったら単なるバカになっちゃいます。
まさに英雄譚であり、「バカ」が褒め言葉なんだという作品です。
「お人好しってのはな、誰に向かっても大抵お人好しなのさ。それに俺が守りたい日本ってのはそういう心意気だと思ってね」
イトウさんは新田大尉を利用するだけ利用するのは、国を守るためだと言い切った。
租界の話を、今の面白い話で読みたいと思っているので、終盤、上海のくだりが急転直下で収拾がついたみたいで残念。工部局なんていう、字面からして土木関係の役所としか思えない組織が、いつの間にか警察の真似事みたいなことをするに至る経緯は、租界なんて隔離地区が勝手に大きくなって自治区みたいに発展していくのと平行していて興味が尽きないのだけれど、ここに関わりすぎてたら予定の3巻ではとうてい収まらないから仕方がないのですけれど。
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