世界的に景気が次第に悪化した1920年代、日本では浜口内閣が対応策として軍縮、(軍縮効果も含めた)財政引き締めによる国債発行額の圧縮、そして金輸出解禁を打ち出しました。
ここでいう「金輸出解禁」とは「金本位制」への復帰であり、これに対しては財界なども金融恐慌からの回復策として大いに期待されていたといいます。1929年10月24日、ニューヨーク株価が大暴落しましたが、1930年1月11日には予定通り金解禁を実施し、実際に市場もこれを歓迎して上昇。1月21日の衆議院選挙においても有権者は政府を支持し、完全勝利をつかみます。
この金本位制への回帰を打ち出したのは、日銀総裁を務めたこともある蔵相の井上準之助でした。彼は、金本位制によって経済が自動調整されると信じていました。金本位制では、金の量に応じて通貨発行が制限されるから、輸入が超過すれば対価である金は流出します(すなわち通貨の減少)。その結果、金利が上昇して国内物価も下落することにより、今度は輸入が減少するというのです(逆も同じ)。これがうまく機能するならインフレや為替リスクは発生しませんし、しても影響は最小限に抑えられることになります。
けれども、物価が下がっても輸出が教科書どおりには増えるわけではありませんでした。当時の日本の主幹産業は生糸産業でしたが、アメリカの株価暴落に始まる大恐慌によって、高級嗜好品である絹の需要は一気に落ち込んだのです。1929年には85.3だった生糸の単価指数は翌年には59.7まで低下し、日本の農村経済はこれによって大打撃を受けてしまいました。
また井上は投資家の動きも軽視していました。金解禁が実施されるや、それまで日本の金解禁をあてこんで円買いを進めていた内外の銀行は一気に円売りドル買いの利食いに走ったのです。その結果、1930年の最初の半年で、2億3000万円の正貨が流失し、デフレがますます加速します。しかし、金解禁のいわば原資確保手段として「緊縮財政」を実施していた政府にはとるべき手段がありませんでした。
1931年4月13日、浜口内閣は総辞職しました。
同年9月。イギリスが金本位制離脱を離脱。投機筋は日本も離脱必至と見ました。もはや誰の目にも金本位制の崩壊は明らかでした。もし日本も離脱すれば円レートは暴落し、膨大な為替差益が発生します。そこで差益確保のために(ロックフェラー系)ナショナル・シティ銀行といった海外の金融機関はもちろん、三井、三菱、住友などの財閥系銀行までがドル買いを進め、その結果、物価の下落は止めどなく進むことになりました。
金本位制は大銀行によってとどめを刺されたのです。
同時に中国大陸では、満州事変が勃発しました。新たな若槻内閣は浜口路線を踏襲しており、日中の平和外交路線と軍備縮小の立場から「不拡大方針」を発表しますが、関東軍による作戦は大成功をおさめ、わずか5ヶ月で満州全土を制圧してしまいます。恐慌に沈み込んでいた国民は優勢な戦局に熱狂しましたし、それは一般の兵士たちも(彼らの多くは恐慌で経済が壊滅した農村部の次男以下が主流でしたから)同様でした。もはや政府に軍の勢いを止めることはできませんでした。
1931年12月11日、若槻内閣総辞職。そして、それまで浜口内閣の軍縮路線に「統帥権干犯」として反対していた犬養毅を首班とする内閣が発足。蔵相高橋是清は金輸出を再禁止するのでした。
この1929年から31年における金政策をめぐる一連の経緯の中で、誰が利益を得たかといえば、政権を手に入れた政友会であり、発言権を強め戦場を手に入れた軍部であり、為替差益で莫大な利益をあげた金融機関・財閥でした。しかし、辛亥革命を支援したアジア主義者でもあった犬養毅は、満洲事変の収拾に失敗し、さらに5・15事件で殺害され、その軍も太平洋戦争での敗戦によって消えました。
ここでいう「金輸出解禁」とは「金本位制」への復帰であり、これに対しては財界なども金融恐慌からの回復策として大いに期待されていたといいます。1929年10月24日、ニューヨーク株価が大暴落しましたが、1930年1月11日には予定通り金解禁を実施し、実際に市場もこれを歓迎して上昇。1月21日の衆議院選挙においても有権者は政府を支持し、完全勝利をつかみます。
この金本位制への回帰を打ち出したのは、日銀総裁を務めたこともある蔵相の井上準之助でした。彼は、金本位制によって経済が自動調整されると信じていました。金本位制では、金の量に応じて通貨発行が制限されるから、輸入が超過すれば対価である金は流出します(すなわち通貨の減少)。その結果、金利が上昇して国内物価も下落することにより、今度は輸入が減少するというのです(逆も同じ)。これがうまく機能するならインフレや為替リスクは発生しませんし、しても影響は最小限に抑えられることになります。
けれども、物価が下がっても輸出が教科書どおりには増えるわけではありませんでした。当時の日本の主幹産業は生糸産業でしたが、アメリカの株価暴落に始まる大恐慌によって、高級嗜好品である絹の需要は一気に落ち込んだのです。1929年には85.3だった生糸の単価指数は翌年には59.7まで低下し、日本の農村経済はこれによって大打撃を受けてしまいました。
また井上は投資家の動きも軽視していました。金解禁が実施されるや、それまで日本の金解禁をあてこんで円買いを進めていた内外の銀行は一気に円売りドル買いの利食いに走ったのです。その結果、1930年の最初の半年で、2億3000万円の正貨が流失し、デフレがますます加速します。しかし、金解禁のいわば原資確保手段として「緊縮財政」を実施していた政府にはとるべき手段がありませんでした。
1931年4月13日、浜口内閣は総辞職しました。
同年9月。イギリスが金本位制離脱を離脱。投機筋は日本も離脱必至と見ました。もはや誰の目にも金本位制の崩壊は明らかでした。もし日本も離脱すれば円レートは暴落し、膨大な為替差益が発生します。そこで差益確保のために(ロックフェラー系)ナショナル・シティ銀行といった海外の金融機関はもちろん、三井、三菱、住友などの財閥系銀行までがドル買いを進め、その結果、物価の下落は止めどなく進むことになりました。
金本位制は大銀行によってとどめを刺されたのです。
同時に中国大陸では、満州事変が勃発しました。新たな若槻内閣は浜口路線を踏襲しており、日中の平和外交路線と軍備縮小の立場から「不拡大方針」を発表しますが、関東軍による作戦は大成功をおさめ、わずか5ヶ月で満州全土を制圧してしまいます。恐慌に沈み込んでいた国民は優勢な戦局に熱狂しましたし、それは一般の兵士たちも(彼らの多くは恐慌で経済が壊滅した農村部の次男以下が主流でしたから)同様でした。もはや政府に軍の勢いを止めることはできませんでした。
1931年12月11日、若槻内閣総辞職。そして、それまで浜口内閣の軍縮路線に「統帥権干犯」として反対していた犬養毅を首班とする内閣が発足。蔵相高橋是清は金輸出を再禁止するのでした。
この1929年から31年における金政策をめぐる一連の経緯の中で、誰が利益を得たかといえば、政権を手に入れた政友会であり、発言権を強め戦場を手に入れた軍部であり、為替差益で莫大な利益をあげた金融機関・財閥でした。しかし、辛亥革命を支援したアジア主義者でもあった犬養毅は、満洲事変の収拾に失敗し、さらに5・15事件で殺害され、その軍も太平洋戦争での敗戦によって消えました。