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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

完本 日本語のために

2018-06-24 18:02:21 | 丸谷才一
丸谷才一 平成23年 新潮文庫版
著者の文章論とか日本語論みたいのは、あるのは知ってたんだけど、あまり読もうとしてこなかった。
軽妙洒脱なエッセイなんかが好きなもんで、なんかあまり難しそうなものはねえ。
でも、“日本語相談”とか読んだら、やっぱおもしろいので、こんどはこれ読んでみることにした。
なんか似たようなのあって、よくわかんなかったんだが、巻末みたら、これは『日本語のために』(昭和49)と『桜もさよならも日本語』(昭和61)を合本した文庫だっていうんで、それならおトクと思って手に取ったんだが。
旧版のなかから一つずつは収録にもれてるんだという、うーん、きっとそれだけのために、ほとんど同じものなのに再度もとのやつ手に入れるような行動をとるな、俺は。
まったく、ちっとぐらいページ数が増えるからって、省かず全部入れろよなー、完本とか銘打つんなら。
なかみとしては、日本人の日本語つかう能力のおとろえを憂いて、戦後の国語改革とか教育への批判がけっこういっぱい。
しかし、最近の言葉の使いようはなっちゃいない、なんてえのは、いつの時代でも言われるんだろうね、このあとの時代はどうなっていくことやら。
国語改革については、
>第一に国語改革は、日本語の合理性と機能性をそこなつた。(p.215)
と厳しく糾弾してんだが、これは読み書きが容易になるとかってのはたいしたことぢゃなく、人は言葉によってものを考えるんだってことに理解がおよんでないとこが問題なんだと。
そこは明治維新以来、ずっとまちがってるとこで、
>そのとき、明治政府が気がつかなかったのは、言語はものを考えるための道具であるということです。単に命令して理解させる、そういうコミュニケーションのための道具としてしか考えなかった。(p.336)
と国民皆兵のために力を入れた教育のことを指摘している。
ついでに、戦後の国語改革については、追従しちゃった新聞についても、
>それなのに唯々諾々として文部省国語課に盲従したあたり、社会の木鐸たる権利をみづから放棄したものと言つてもよからう。(p.88)
とかって厳しい調子で、言葉を使うくせに自分たちで新しい書き方を考えようという努力をしなかった態度を批判してますが。
国語改革に関連して、仮名について、思いっきり勉強になったのは、新仮名で育った私なんかは誤解しがちなんだが、仮名って単なる発音記号ぢゃないってこと。
古代の万葉仮名は発音を文字に写すものだったかもしれないけど、藤原定家が仮名づかいに心を配るようになったあたりから、意味合いが違ってきたんだと。
>すなはち、この時期以降、仮名書きの表記には、綴字といふ局面と、発音記号といふ局面と、二つが生じたのだが、この綴字を確定したのが江戸期の国語学者たちであつた。(p.237)
っていうこと判れば、旧仮名のほうが、なんつーか合理的だって気がしてくる。
文字にして書くということは、話すこととは違ってくるわけで、文体にしても、
>口をついて出るおしやべりをそのまま書き写せば口語体になると、世間では漠然と考えてゐるらしいが、これはまつたく間違つてゐる。口語体とは口語の文体の意である。それは常に文体としての形と整ひを要求されるし、その形と整ひの規範は、実質的にも歴史的にも文語体にあるのだ。(p.37-38)
っていうように、ある程度文語体をマスターしなくちゃならないってのも、言われりゃそうだなって気になる。
それにしても、私としては、教育とかなんとかってよりも、日本語ってそもそも分析したり論理を展開したりって言語ぢゃなかったんではっていう、歴史というか伝統というかのあたりのほうが興味深かった。
>戦前の日本の文章は、概して言へば、ちようど江戸後期の『解体新書』のころ、大和絵や文人画の骨法をもつてしては人体解剖図を描けなかつたと同じやうに、具体的な事物を明細に描写し叙述する力を備へてゐなかつた。(p.167)
とか、
>概して言へば、戦前の日本では、勿体ぶつてゐて無内容であり、体裁だけを大事にして具体的な情報を提供しない、いはば祝詞のやうな美文が幅をきかせてゐた。その手のものを標準型とする文章観が改まつて、現代日本文が虚飾と儀式性を捨て、ものごとを具体的にテキパキと伝へる文章がかなり多くの人によつて書かれるやうになつたのは、昭和三十年代からであつた。(p.176)
とかって言われちゃうと、そーかー科学的なこと日本語で述べるなんてことは100年も歴史ないんだ、みたいに思ってしまい、そりゃあ議論の積み上げとかしねーよな誰も、って気になってしまう。
文法とか語彙とかってんぢゃなく、
>(略)もともと論理的に緻密に考えるということを、明治以後の日本人は重んじなかった。一番いけないのは、天皇とか国体とかそういう言葉を持ち出しててきて思考を停止させる。議論となると何か権威を持ち出して勝とうとする。論理で勝負しない。そういう態度が政治家にも評論家にもあったんですね。(p.344)
って、ものの考え方に問題があるんだな、日本人は。この先もたいして変わりそうにはないねえ、きっと。
どうでもいいけど、国語教育のなかで、子供に読書感想文を書かせるなっていうもっともな批判をしていて、
>読書感想文といふのは一種の書評である。そして書評がどんなにむづかしいかは、海千山千の文筆業者がさんざん苦労して、なかなかうまく書けないのを見てもわかる。(p.108)
って作家・評論家にそう言ってもらうと、全国の宿題に苦しむ子供たちが救われるねえ。
それに続く、
>一冊の本といふ膨大で複雑なものを短い文章で紹介し論評するのは、郵便切手の裏に町全体の地図を書くくらゐ大変なのである。そんな藝当を子供に強制することは、角兵衛獅子の親方だつてしなかつた。(同)
って例えは、めちゃくちゃウケた。
i 国語教科書批判
 1 子供に詩を作らせるな
 2 よい詩を読ませよう
 3 中学生に恋愛詩を
 4 文体を大事にしよう
 5 子供の文章はのせるな
 6 小学生にも文語文を
 7 中学で漢文の初歩を
 8 敬語は普遍的なもの
 9 文学づくのはよさう
 10 文部省にへつらふな
ii 日本語のために
 未来の日本語のために
 将来の日本語のために
iii 国語教科書を読む
 1 分ち書きはやめよう
 2 漢字配当表は廃止しよう
 3 完全な五十音図を教へよう
 4 読書感想文は書かせるな
 5 ローマ字よりも漢字を
 6 漢語は使ひ過ぎないやうに
 7 名文を読ませよう
 8 子供に詩を作らせるな
 9 古典を読ませよう
 10 話し上手、聞き上手を育てよう
 11 正しい語感を育てよう
iv 言葉と文字と精神と
v 大学入試問題を批判する
 慶応大学法学部は試験をやり直せ
 小林秀雄の文章は出題するな
附録
 歴史的仮名づかひの手引き
 和語と字音語の見分け方
 わたしの表記法について
 言葉は単なる道具ではない 大野晋
あとがきにかえて 日本人はなぜ日本語論が好きなのか
コメント
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