丸谷才一 一九六六年 晶文社
これは去年11月に神田古本まつりのどこかで見つけたもの。
ことしは行けるかなー、神保町。ヒマはあるけど、なんか出かけてくパワーみたいなものが落ちてるし。
と思って、いま「日本の古本屋」で調べたら、きのうから始まってるぢゃないか、11月4日までだって、行かなくちゃ。
で、この本は、評論集って銘打たれててカタそうだし、なんせ箱に入ってると気軽に手が伸びないしで、ずっと放っておいたんだが、最近やっと読んだ。
いくつかはどっか他の文庫に再録されてたのを読んだような気がする、最初の「未来の日本語のために」とか。
そのなかで、小学生にローマ字教育なんかしなくていいって丸谷さんは言ってんだけど、それは1964年の話で、いまぢゃキーボード入力するためには、やっぱ教えとかないといけないのかなって気がしないでもない。
全体的に、近代の日本文学について、私小説とかそういう方向にいっちゃったことを批判している、といっていいんぢゃないかと思う。
「暗くてみじめで貧しくて深刻なこと」(p.39)が価値があるかのように、そういったこと書くのこそが文学だ、ってのは片寄ってるよと。
だから、ユーモアとかロマンとかがありゃしないんだ、日本のいわゆる純文学ってやつには、真面目ぶってればいいってもんぢゃないよと。
それが、
>明治文明はヨーロッパ文明の十八世紀以前を切り離して十九世紀だけを学んだ。そして近代日本文明はその基盤の上に築かれた。文学の不幸は、文明全体のこのような不幸の、文学という一部門、一領域におけるあらわれにすぎないのである。(p.40)
って日本の文明のありかたに問題の所在をもとめちゃうのは、なかなか大きな話だ。
べつのとこでは、
>しかし彼はまた知っている。小説とはもともと無限定的な形式であり、純粋化を嫌う形式なのだということを。小説とはもともと、F・M・フォースターが嘆息しながら言うように、面白いお話なのだということを。そして、小説が芸術作品として磨かれすぎるとき、それは本来的な魅力を失い、素朴で荒ら荒らしい生命力の欠けたものになってしまう危険があるということを。(p.255)
と言ってて、ここの「彼」というのはグレアム・グリーンのことなんだけど、小説とはおもしろくあるべきと説いてくれてる。
これ読んでて思い出したんだけど、『挨拶はたいへんだ』のなかで、村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』谷崎賞贈呈式での選考委員祝辞で、
>たしかにこの長篇小説は現代日本小説の約束事にそむいてゐます。
>第一に、主人公はすなはち作者自身である……らしいといふ錯覚を与へない。(略)第二に、このことでもわかるやうに、これはSF仕立てであつて、明治末年以後、約八十年にわたつてつづいて来た、小説は生の現実に密着しなければならないといふ風習に逆らつてゐます。そして第三に、汚したり、読者に不快感を与へたりすることが文学的勘どころになるといふ、これも約八十年つづいた趣味を捨ててゐます。(『合本挨拶はたいへんだ』p.248-249「この抒情的な建築」)
って、その冒険的ともいえる日本文学伝統への反逆を紹介して、絶賛している。
リアルぢゃなきゃいけないなんて決まりはない、そこを認めることは純文学にとって大事なことだと思わされますね、たしかに。
コンテンツは以下のとおり。
I 文明
未来の日本語のために
津田左右吉に逆らって
日本文学のなかの世界文学
実生活とは何か、実感とは何か
II 日本
舟のかよひ路
家隆伝説
吉野山はいずくぞ
鬼貫
空想家と小説
菊池寛の亡霊が
梶井基次郎についての覚え書
小説とユーモア
III 西欧
「嵐が丘」とその付近
サロメと三つの顔
ブラウン神父の周辺
若いダイダロスの悩み
西の国の伊達男たち
エンターテインメントとは何か
グレアム・グリーンの文体
父のいない家族