五木寛之 平成11年 幻冬舎文庫版
ちょっと前に、村上春樹の『猫を棄てる』という著者曰く「個人的な文章」を読んだんだけど。
父親について語り、要するに「この僕はひとりの平凡な人間の、ひとりの平凡な息子に過ぎない(p.94)」という話なんだが、そのなかで、
>言い換えれば我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。(p.96)
という箇所があって、読んでるときに、あれ? なんかこういう言い表しかた、どっかで聞いたような気が、って思って、今回読んでみたのが本書。
最新の文庫の帯によれば、「総計320万部超の大ロングセラー」ってことだけど、私は書名や何かの引用で聞いたことはあったけど読んだことなかったので、さっそく買いに行ったのが先月。
すごいね、単行本は一九九八年発行らしいけど、書店の文庫売り場に平積みになってた、令和2年6月で46版だ、文庫。
(どうも近頃、新刊書店はもちろん古本屋でも見つからない本ばっかり求めてたので、ちゃんと流通しつづけているものがあると驚くような体質になっている。)
読んでくと、あった、あった、ありましたよ、「一滴」が。
>存在するのは大河であり、私たちはそこをくだっていく一滴の水のようなものだ。ときに跳びはね、ときに歌い、ときに黙々と海へ動いていくのである。(略)
>私たちの生は、大河の流れの一滴にすぎない。しかし無数の他の一滴たちとともに大きな流れをなして、確実に海へとくだっていく。(p.46)
うーむ、似てるってば似てるような気も。まあ、いいや。
で、本書のなかみについては、遅ればせもいい加減にしろというくらい今さら読んだ私がどうこう紹介するようなものでもないっしょ。
全体的な印象としては、なんか仏教関係の書物みたいだなー、って感じがした。
実際、仏教について語られてるところもあって、おもしろいのは親鸞や蓮如が現代に生きてたらどうしただろうって話で、それも
>親鸞はテレビに出ただろうか? おそらく出ないでしょう。(略)では蓮如はどうか。蓮如ならワイドショーにも出たかもしれない。(p.302)
なんて例えば論をあげてるのは、両者ともよく知らない私なんかでも、なんか妙にわかりやすい気がする。
あと、言葉の力ってことについての話のなかで、お医者さんの例をだして、
>ぼくの知りあいのお医者さんで、そのあたりの患者さんとの呼吸をよくわかっている人がいます。戦後まもなく東京で開業して以来五十年、町のホームドクターとして大勢の患者さんをみてこられているのですが、そのお医者さんは、診察開始十秒が勝負だと言います。十秒間で、つまり、患者さんが最初に発する言葉や表情から、医者は病状に関するインスピレーションを得なければいけないし、またお医者さんは自分の言葉や態度から、相手の信頼を勝ちえなければならないのだそうです。(p.216)
っていうところがあるんだけど、なるほどそういうものかと思った。
(最近になって、つまんないことで新しい医者へ行く機会が一度ならずあった、診察券が増えてく一方だ。)
どうでもいいけど、ラジオで発表したのを収めたって章があって、当然語り口調に近いわかりやすい文章なんだけど、すぐ近くで「ぼくたちが」と「私たちは」の両方を使ってるとこがあって、なぜと気になったんだけど、たぶん「ぼくたち」は個人に近いもの、「私たち」は戦後日本人全般って感じで言ってると思われ、上手だなという感じがした。
コンテンツは以下のとおり。
人はみな大河の一滴
滄浪の水が濁るとき
反常識のすすめ
ラジオ深夜一夜物語
応仁の乱からのメッセージ