平本弥星 二〇〇一年 集英社新書
昔読んだんだろうけど長くしまったままで忘れられてたのを再発見した新書のひとつ。
持ってるのは二〇〇四年の第九刷なんだけど、例によって当時の私がいかなる理由で読んでみようと思って手に入れたかはおぼえてない。
んー、たぶん『ヒカルの碁』とか読んでたころかもしれないんで、そのへんから流れてったような気がする。
囲碁の知ってなんぞやと思うんだが、「おわりに」で著者は、
>本書は『囲碁で知る』という書名で書き上げた本です。(略)碁で何を知るか、そのきっかけやヒントが随所に潜んでいる本を作りたい。そう思った私の試みが本書です。
と言ってるし、「はじめに」では、
>私は、今も碁によって多くを学び続けています。学校で学んだことより、碁で知ったことのほうがずっと大きく、深い。(略)脳が自由にプレイする知のフィールド。心で感じ、自分を表現する知のカンバス。碁は万人に開かれている、ひろやかな知です。
とか宣言しているんで、そういうことなんでしょう、たとえていえば「囲碁に必要なことはすべて人生から学んだ。あ。逆だ。」ってやつですね、きっと。(←「あ、逆だ」というのはホリイ氏の著書で使われてるフレーズ、好きなんですいません)
第一章にはけっこう碁の図面があって、これがいい手だとか説明してくれてんだけど、碁を知らない私には内容がよくわからない。
人間の記憶には、身体で覚える「手続き記憶(技の記憶)」と頭で覚えて言語で表現する「陳述的記憶」があるって引用をしたうえで、
>知識として覚えた碁のルールは「意味記憶」です。(略)ルールを意識せずに碁を打つようになったら「手続き記憶」です。(p.61)
なんていってるとこがあって、最近こんなの読み返したようなと思ったら、『世界を肯定する哲学』に技の記憶の話があったんで、偶然かもしれないけど当時の私はそういうのに興味があったのかもしれないって気がしてきた。
第二章には、なんで碁盤は19×19なのかみたいな話があるけど、私はあまり好奇心のようなものを刺激されはしない。
それよか、定石ってのは知識だから、現実の局面に対応するときは既存のものを意識せずに考えなさいって意味で、「定石は覚えて忘れよ」って言葉を紹介してたりして、そういうのを披露するのが本書でやりたいことなのではないかと思った。
ほかにも、「碁は生きもの」といって、変化が変化を呼んで最初の形からは想像できない流れになることがあるとか。
「小を捨てて大に就く」とか、「捨石」として全体のバランスのために捨てられて死んでいく部分があるのは生物と同じようなものだとか。
「部分と全体」を考えるとか、石は単独ではなく「関係」をもつ存在だとか、つながりを持つ仲間がなければ生きていけないものだとか。
>碁は、生物の生存競争と同じように、より良く生きようとするゲームです。より良く生きて、相手よりわずかでも多く同種を存在させた方が優れているというゲームです。
>碁は、相手を否定するゲームではありません。目的はより良い生存なので、必要のない限り相手を殺そうとはしません。相手を殺そうとするより、自分の生存を増やそうとする方が有利だからです。(p.148)
という展開から、人間も攻撃性はあるけどそれをコントロールして共生するようにしようよ、みたいなことになるんだが、おそらくこのへんが「碁に必要なことはすべて人生から学んだ、あ、逆だ」として一番言いたいことなんぢゃなかろうかと思わされる。
第三章は、延々と日本史の時間です、権力者が移り変わっていく記述のなかで、ときどき誰それも碁を打ったはずだ、碁を打った記録があるとか触れられてるんだけど、正直私にはあまり興味が持てない。
章立ては以下のとおり。
第一章 手談の世界――碁は人、碁は心
碁を打つ
プロの碁と囲碁ルール
アマチュア碁界の隆盛
脳の健康スポーツ
第二章 方円の不思議――碁の謎に迫る
碁とは
定石とはなにか
生きることの意味
第三章 囲碁略史――碁の歴史は人の歴史
1 中国・古代――琴棋書画は君子の教養
2 古代(古墳時代・飛鳥時代・奈良時代・平安時代)――文化は人とともに来る
3 中世(鎌倉時代・室町時代)――民衆に碁が広まる
4 近世(安土桃山時代・江戸時代)――260年の平和、囲碁文化の発展
終章 新しい時代と囲碁
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