many books 参考文献

好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

バーボン・ストリート・ブルース

2014-03-12 21:21:14 | 読んだ本
高田渡 2008年 ちくま文庫版
きのうのつづき、ということになろうか。高田渡の自伝。
最近、書店で見かけて、読んでみるかって気になった本。
幼少期の「かわいげのない子供」だったころの話から、日本中のあちこちをライブでまわる話まで、いろいろ。けっこうおもしろい。
きのう採りあげたように、現代詩にふれて、自分にはとても及びもつかないと思ったから、そういう詩に曲をつけるようになったってことも書かれてる。
自身のがんこさについても語ってて、音楽をやるのは、売れたいからぢゃなくて、表現したいことがあるからであって、そのスタイルを変える気はない、みたいな言い方をしてる。
でも、かたやで、宝くじが当たって大金を手にしちゃったら、いまみたいな歌は歌えないから、人知れず引っ越しちゃうだろう、なんて正直なことも言ってる。
気になった部分を引用しちゃうと、
>今はたぶん“目先の時代”なのだと思う。(略)みんなが持っている新しいものを自分も持っていたい(略)それをしていないと、自分ひとり取り残されていくような疎外感に襲われるのだろう。そして洗脳する側もまた巧みにその不安感を煽ろうとする。
なんてとこは、最初の出版は2001年だったらしいけど、現在でも変わってない状況を的確に考察してると思う。
また、
>(略)伝統芸能を守るために日本の政府はなにがしかの補助金を出しているが、はたしてそれでいいのだろうか。今でこそ伝統芸能と言われるものも、かつてはその時代のいちばん新しい芸能だったはずである。それが温存されるようになってしまったときから衰退は始まった。
なんて言って、もとの器がしっかりしてるなら、曲の歌い方は変わってってもいいと考えている。
まあ、音楽に対する姿勢とか、生き方とかは、どうでもいいとして、あらためて年譜を見て思ったんだけど、私が初めて高田渡を見たのは、1993年(泉谷のライブのゲスト)だったと思うんだけど、当時44歳だったのね。全然もっと上の爺さまに見えたよ。
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系図

2014-03-11 20:13:27 | CD・DVD・ビデオ
高田渡 オリジナルは1972年らしい
私の持ってるのは、1990年のキングレコードのCD、「ベルウッド・クラシックス」って、70年代の36のアルバムをCD再版しなおしたシリーズらしい。
高田渡のセカンドアルバムである。
あらためて知ったんだけど、詩がね、高田渡の作詞ぢゃないのがほとんどなわけだ。
以下が収録曲と、wordsとしてクレジットされてる人の名前。
(musicは、12が「いとうたかお」なのを除いて、高田渡。)
1.夜風のブルース ラングストン・ヒューズ
2.69 金子光晴
3.出稼ぎのうた 小幡周太郎
4.長屋の路地に 木山捷平
5.酒 細田幸平
6.手紙を書こう 永山則夫
7.系図 三木卓
8.ミミズのうた 永山則夫
9.告別式 山之口獏
10.鎮静剤 ローラッサン、堀口大学
11.鉱夫の祈り 高田渡
12.あしたはきっと いとうたかお
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部班のなかではできなくて

2014-03-10 20:26:43 | 馬が好き
えーと、やっぱ最初に、前回“引き”をしちゃったことに触れぬわけにはいかないか。
(自慢聞いてほしいひとにはメールしちゃったから、いまさらここでは、もういいんだけど。)
実は、ひょんなことから、アンダルシアンのタリスマンに乗っけられちゃった。

当日は、春だというのに、小雪が舞ってきた。馬場に出た途端である、めずらしいことは、してはいけない。
あたりまえだけど、先生が乗って、馬は仕事わかってる状態(または我々シロウトからみると「魔法がかかっている状態」とも呼ぶ)からスタート。
馬は、「今乗ってるやつ、ちょっとヘタ?」とか戸惑ってたようだけど、もうお邪魔にならないようにだけ心掛けた。
課題は、スペイン常歩と、ピアッフェ。(と、クールベット…。) (←わからない言葉は辞書をひきましょう。)
神をも恐れぬというか、ほんと罰当たりな無謀きわまるチャレンジだ。

(↑写ってない後ろから、先生がムチの扶助つかってます(爆))
だいたい半減却もままならない私に、ピアッフェできるわけがない、って始まる前から言ってたんだが。
「コンタクトを維持するだけの最小限」(「JRA Dressage Training」を読んでね→http://jra.jp/bajikouen/Dressage_Training/index.html)って、私の最も苦手な分野じゃん。いつも「引っ張るな」とか「かえすとこつくって」とか言われまくってんだから。
とか何とか言ってたら、なんだかわかんないまま、馬は動いてくれてたみたい。(みたいってのは、自分が何してたか分からないから。)
最初は当然緊張してたんだけど、終盤は、馬から「どうだぁ?すごいだろー? おまえももうちょっと楽しめー!」みたいなものを感じたんで、私も余裕ができてきた。
そうして、ラクにしてやることができると、馬の動きはますます良くなった。馬に教わってばっかり。
ほんと、偉大な馬だ。(←こらこら、ひとが馬をリスペクトして、どうする? ボスになれ。…ってムリだよなあ、人馬でレベルが違いすぎ。)
これ以上は、長くなるので(ほんと長くなるだろう)、またの機会に。とりあえず、報告おわり。

さて、興奮さめやらぬまま、っていうか個人的乗馬ブーム全開状態になってしまい、今日も乗馬にいく。
陽が昇るのなんかはかなり早くなった気がするけど、風は冷たく、まだまだ寒い。
きょうはマイネルミレニアム、2週連続2度目。
馬場行ったら、常歩でウォーミングアップ。前へ歩く気はじゅうぶんあるんだけど、どうもあっさりうけてくれる感じぢゃない。
ぢゃあ部班やるよーって、うまいこと先頭を避けて5頭立ての4番手に位置する。
なんで部班に入ってるかっていうと、広いとこで一人で乗っても、やるべきこと一緒、座りの改善(正確には脚の位置と使い方)とハミうけの実現だけだからである。わかりやすい区画のなかで列になってたほうがラクだ。
さて、こないだ気づかなかったけど、あらためて乗ってみると、サスペンションが固く感じるよ、この馬。(←アンダルシアンと比べてはいけないぞ、俺!?)
反撞のきびしい馬に、すわろうとしてはいけない。こっちも固くなってしまい、ドスンドスンぶつかっちゃう。
動け、関節を動かして、筋肉をやわらかくして、一歩ごと馬が動くのにあわせて、人間も動け、動かないから衝撃がきちゃうんだって。馬は前へ進むにきまってんだから、その動き読んで人が先に動け。
カカト下げようなんて考えると、足首固まっちゃうから、そうぢゃなくて、一歩ごとに足首の関節開閉させるように、動かすほうを意識する。
そして、ハミうけ。長蹄跡でまっすぐ進んでるときでも、内の手綱でぎゅっと内向けることしたりして、やりとりする。
内向けたりなんかしてるうちに、隅角にさしかかると内に入ってこないようにって、外に圧しだしたりするんだから、なかなか忙しい。
アタマ下がったかなと思っても、軽くなってこないで抵抗を感じることが多い。でも「引っ張り合うな」「ゆずったらラクに」「かえすとこ作れ」ってブツブツ唱えて、なるべく手が強くなりすぎないように注意しながら回る。
なんか納得いかない(たぶん馬も納得してない)けど、輪乗りで駈歩。
気がつくと、手綱引っ張ってる。手綱を頼りにしてぶらさがったりしてるつもりはないんだけど、なんか私は強いコンタクトがないと不安というか、何もできないような思い込みがあるみたいで、前に進めるべきとこでも手綱をギューっとしたがる、というのが最近ようやく自覚した、手綱引っ張る原因である。
いちどハミうけとか忘れて、ラクにして前へ出ることのほうを優先、手綱引っ張らないように、手を馬のクビに置いちゃうくらいのつもりで、駈歩を続ける。
それから、あらためて持ち直して、もうちょっと内向いて走れよー、とか始める。開いて、馬がアタマ下げたら、すぐ手を戻す。
蹄跡行進、例によって隅角でガチャガチャやったら、ちょっと馬がイラッときた感じがした。確かにいまの内の手綱は乱暴な引っ張り方だったわ、やばいやばい、ごめんごめん。そのあと少し遠慮する、基本的にサラブレッドを信用してない私、キレられると危ないし、っていうか部班で飛んだり跳ねたりすると周りに迷惑だからね。

(きょう、アツくなって、いっしょけんめ、やりすぎたので、馬場で写真を撮るのを忘れた。手を放すヒマがないときは、よくあることだ。)
んぢゃ、部班はおわり。数分休憩。
終わってもいいんだけど、もうちょっとうまく乗りたいので、もうちょっとだけ試してみることにする。
適当な大きさで輪乗り。ただし先週同様、砂の深そうなとこは、馬が嫌がりそうなので、避ける。
最初、常歩。内の手綱開く、アタマ下がったら、もと戻す。
わりとすぐ反応するので、なんかリズミカルになってきて、戻すの忘れることがなくなる。
油断するとアタマあげられちゃいそうだし、ときどきイヤだよーって感じのガツガツとした抵抗があるんだけど、基本しょーがねーなーって感じで次第にハミうけは改善されてきた気がする。
そしたら、速歩。丸くして乗ろうとか、いろいろやりはじめたら、ああ軽速歩のほうがお互いラクだよなって、わりとすぐ気づいたので、軽速歩で輪乗り。
開く、いうこときく、戻す、やってること一緒。
よくなったかなと思ったら、歩度伸ばす。伸ばすと、私の場合、ウケるの甘くなる、ただ馬が伸びてっちゃうだけ。そう思ったら、また詰める、いいカッコ追求するのは、遅いほうがやりやすい。
よっしゃ、駈歩すっか。駈歩でもおなじ、内向け、ゆずった、かえす。
あまり繰り返さなくなった、アタマの位置低いままで回る時間が長い。
詰めたり、伸ばしたりもする。始めたときより、乗りやすくなった気がする。
それにしても、アタマずいぶん低いな、これでバランスとれてんのかなって思ってると、先生やってきて「いいですよ、良くなりました」と言ってくれる。
たしかに、以前の私だったら大満足な状態なのは間違いないんだけど。
大方うまくいってるんだけど、ほんの何割か物足りなさを感じる。これで不満とは、神をも恐れぬ傲慢さだ、我ながら。
でも、こないだ体験した、パーフェクトな(と当人は思ってる)ハミうけ(byギルデッドエージ)に比べると、ちょっと力強さがいまいち。
あれは言葉にできない体験だったんだけど、あのときって、自分の手に一馬力を感じたんだよね、ヘンな言い方だけど。引っ張るとか抵抗する重さとは違う、馬の前進する手応え。
それと、自分の尻の下から持ち上がってくるような踏込、それらがトータルで、ものすごい力強い動きだった気がする。
くらべると今は、馬のアタマは下がって、全体は丸くなってきてはいるんだけど、なんか力がたまってる感じはしない。
あのときは、たとえば今目の前に階段があったとしても、一段抜かしでサクサク登っていけるぞ、って雰囲気の(妙なたとえ方しかできないが、ホント前方しかも上へ行きそうな動きだったんだ)パワーあふれる動きだったんだけどな。
なので、せっかくホメていただいてるのに、ナマイキ極まることに「まだ、ウケてるというよりも、どこかモタレられてるような感じがあるんです」なんて、ほざいてしまった。
「あー、だとしたら、その状態で、もっと馬を動かすようにしてください」がお答え。なるほど。そうか、なるほど。
「あと、拳つかったときに、いっしょに上体が前に倒れてしまっている。もう少し姿勢よく乗って。そのほうが使いやすいでしょ」というご指摘も。
そうかそうか、最初反撞がきびしかったりしたせいか、なんかフワッとした腰のかまえになってたかもしれない。いまは馬も丸くなったし、騎座でというか背骨でというか、すこし押しちゃうようなつもりで乗ってみる。
最後、馬場の経路おさらい一周して、おしまい。速歩から常歩にするポイントどこだったか、あやふやだけど。
よほど私にしては、馬をいいカッコにできてたらしく、先生から「その馬、好きですか」と訊かれる。
せっかくだけど、好きというのとは、ちょっと違うなあ、サスペンション硬めだし。(それって腰にこたえるし。)
ただ、なにかすると、わりとすぐ応えてくれるんで、練習相手としては、いい、楽しい。

鞍はずして、マイネルミレニアムに、おまえは俺のこと好きかって訊いたら、いいからリンゴ出せって、ひとの手をフンフンしはじめたのには、まいった。(まずお湯汲んでやったのに飲まないで、ひとの手に寄ってくるって、ホント何さ?)
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あそぶが勝ちよ

2014-03-07 21:29:43 | 読んだ本
ポール・ラドニック著/松岡和子訳 1991年 白水社
原題は「Social Disease」、訳者あとがきにいわく「社交病」の意味ではないかと。
ポール・オースターとかに興味をもって、いくつか読んでた、この出版社の「新しいアメリカの小説」シリーズのひとつ。
舞台はニューヨークのマンハッタン、クラブ・ドゥって普通のひとぢゃなかなか入れてくれない、当時の最先端のクラブ。
そこの常連の、奇抜なひとたち、毎日夜通し遊び狂ってるひとたちが、主人公。
論理がぶっとんでる会話がとびかってて、全体的に躁状態がきわまってる感じの物語で、私なんかには、どこがギャグで何がおもしろいのか、よくわからない。
たとえば、ずーっとしゃべってばっか、なにかさえずってないと息が詰まって死んぢゃいそうな登場人物(元は男か?)がいるんだけど、これがウチに帰っても、だれかれかまわず電話をかけてるんだが、そのありさまを、
>今や受話器からはもうもうと煙りが立ち昇っていた。使いすぎて熱をもってきたからだ。リッキーは、溶けた樹脂が床にぽとぽと落ちるに任せ、
なんて書いてんだけど、なんかヘンなマンガみたいだ。
それはそうと、今回読み返すまで忘れてたんだけど、これの表紙の画は、岡崎京子によるものである。
それだけで買ったんぢゃないだろうな、俺?
遊んでばっかなのに勢いで結婚しちゃった若き美男美女が主人公なんだけど、そういう雰囲気から、なんとなーく、ヲカザキ作品でいったら『うたかたの日々』を思い出してしまった。
スラップスティックなんで、あんなに悲劇的ぢゃないけどね、これは。
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燃えつきた地図

2014-03-04 17:55:03 | 読んだ本
安部公房 昭和55年 新潮文庫版
むかしむかしむかし(10年が一昔)読んだ文庫が、ごそっとあるんで、順番は適当だけど、読み返してる安部公房。
持ってるのは昭和59年の10刷。発表は昭和42年らしい書き下ろし長編。
失踪した夫の行方をさがしてくれという依頼で、調査をはじめる興信所員が主人公で語り部。
でも、失踪から半年がたってるし、依頼人である妻は、心当たりなんて何にもないという。
なんか手がかりみたいなのあるでしょと迫っても、ポケットに入っていたどこかの喫茶店のマッチ箱しかないって。
手紙とかメモとか何にもなし、って探す気ホントにあんのかよ、って言いたくなるような、ちょっとうつろな状態。
何か情報くださいって言っても、私の弟なら知ってるかも、みたいな的外れな答しか返ってこない。
で、
>人生に必要な地図は、一枚だけで、沢山なんですって…弟の口ぐせなの…(略)みんなが通りつけて、はっきり安全だと分ったところしか、絶対に通っちゃいけないんだって…
ってセリフがあるんだけど、これがタイトルと結びついてるんだろうなあ。
主人公の興信所員は、「ぼくには、十枚でも、二十枚でも、とにかく地図が必要なんだ。こんな、顔写真一枚と、古いマッチ箱一つで、いったい何をしろって言うんです(略)」と言い返してるけど。
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