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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

博士と狂人

2021-05-22 18:37:28 | 読んだ本

サイモン・ウィンチェスター/鈴木主税訳 二〇〇六年 ハヤカワ・ノンフィクション文庫版
サブタイトルは、「世界最高の辞書OEDの誕生秘話」。
原題「THE PROFESSOR AND THE MADMAN A Tale of Murder,Insanity,and the Making of the Oxford English Dictionary」は1998年の出版。
これ読もうと思ったのは、『ガセネッタ&シモネッタ』のなかの対談で、柳瀬尚紀さんが「辞書のあるべき姿っていうのは、意味を編者が決めることではなくて、できるだけ多くの実際の例文を集めて、そこから意味を浮かび上がらせるというものでしょう。これはやっぱりOEDしかやってないんですね、たぶん。」という話のついでに、本書を紹介してたからで。
OEDってのはOxford English Dictionary オックスフォード英語大辞典、総ページ数16,570ページ、収録語数414,825語、用例1,827,306、全12巻、ロンドンで言語協会が「まったく新しい辞典をつくる」と決めた1858年から、完成した1928年まで70年かかったという辞書。
この物語には二人の主人公がいて、ひとりはOED編纂者となったジェームズ・オーガスタス・ヘンリー・マレー博士(1837~1915)、イギリスの貧しい家庭で生まれ育ったが、ひとりでこつこつと勉強しておどろくほどの博学になり、言語学では国内第一人者として、この辞書プロジェクトの主幹に抜擢される。
で、OEDってのは、あらゆる単語について、それが初めて使われたのはいつか示し、その後の意味の変遷を記録して、すべて用例として文献から文を載せる、ってつくりを目指しているんで、とても言語学者ひとりでできるものではない。
かくして、広く協力を募る訴えかけの文章を発表し、新聞・雑誌・書店などに配り、まだ調べられたことのない書籍などを読んで引用する仕事をする篤志文献閲読者を探した。
そこへ手紙で応じてきて、その後膨大な数の用例を送って最大の協力者となったのが、もうひとりの主人公ウィリアム・チェスター・マイナー博士(1834~1920)、イギリス在住のアメリカ人。
このひとが問題、手紙やりとりしてるだけなんで、辞書編纂メンバーたちはこのひとが何者か知らなかったんだけど、実はロンドン近郊の精神病院に監禁されてる、タイトルの狂人のほう。
マイナーはアメリカの由緒ある上流階級の家庭で、父が宣教師として赴任してたセイロン生まれ、父の本業が印刷所経営者だったこともあって子供んときからいろんな文献に接したという。
アメリカに戻ってからはイェール大学で医学を学び、29歳で卒業。ときは南北戦争の真っただ中であり、北部連邦軍に軍医として入隊を志願、戦場へ派遣されることになる。
もともと若いころから精神は壊れやすい危ういひとだったということらしいんだけど、戦場で残忍で無情な現場を体験して、だんだんおかしくなっていく。
脱走したアイルランド人へ罰を与える役目とか負わされたせいで、その後アイルランド人から報復を受けるんではないかという妄想にもとらわれるようになる。
軍では、すぐれた外科医で有能な学者であると評価されて、大尉に昇進したんだけど、いろいろあって、やっぱ任務には適さない、精神異常を患っていると判定され、ワシントンの精神病院で18カ月過ごしたが、病状は回復しない見込みで、名誉の除隊となる。
それでマイナーは1871年秋に、本を読んだり画を描いたりして一年ほど休養して過ごすつもりで、ロンドンに渡った。
しかし1872年2月に拳銃で人を撃ち殺す事件を起こす、午前2時過ぎに早朝勤務に出る労働者、なんの面識も関係もない男を撃った。
裁判では、夜中に見知らぬ男たちが部屋に侵入してきて自分に危害を与えるという妄想にとりつかれているマイナーが、部屋から逃げた妄想中の人物を追って外に飛び出し、そこを通りがかってた男を撃ったという経緯が明らかになり、判決は無罪。
しかし、病気は重いので生涯にわたり拘留すべきと判断され、ブロードムア刑事犯精神病院に終身監禁されることになる。(※日本みたいに野に放ったりはしないんだよね、ってのが私としては前回の記事からの続き?)
そこでは院長の理解もあり、比較的自由で自分の部屋にいろんな書物を取り寄せて置いておくことも許され、やがてOED編纂協力募集の情報をつかみ、それに参加していくことになる。
でも、夜中に部屋に侵入してくる加害者によって残酷な拷問を受ける、みたいな妄想はずっと続くことになる、辞書の用例を集めてるあいだは精神的な発作はおさまってたらしいけど。
で、編纂主幹のマレー博士が、長年情報提供してくれていたマイナー博士ってのはどこにいるどんな人か知って、面会しに行くんだけど、それは1897年の辞典祝賀晩餐会の後だというのはフィクションで、史実としては1891年1月のことだという。

コメント
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