藤田嗣治は、1886年(明治19年)東京生まれである。父は軍医。
転勤で熊本鎮台勤務となり、一緒に熊本に行き、熊本師範付属小学校に
入学する。
これは明治20年代前半のことであり、25年には日本は清国に宣戦布告を
しており、父は軍医として前線に行ったのか、家族は熊本から東京に戻って
いる。藤田は東京高等師範付属小学校に転入したようだ。
この明治25年は、日本の西洋美術史においても特筆する年になった。
黒田清輝(その時30歳)が京都・岡崎公園で開かれた第4回内国勧業博覧会
に出品した裸体画「朝妝」が物議をかもしたのだ。
黒田にとってこの絵は10年間の渡仏生活の総仕上げとして1993年
(明治26年)にパリで描き、サロンにも出品された自信作である。
博覧会の審議員を務めていた黒田は自分自身の絵を守りぬくことになる。
藤田が東京美術学校(1905年=明治38年)に入ると、西洋画科の主任教授が
この黒田清輝だった。
しかし藤田は黒田には認められなかった。
今回の藤田嗣治展の入口に展示された「自画肖像」は美術学校卒業制作の
1点だが、黒田は学生の前で悪い絵の例として解説したくらいだ。
藤田が影の部分に黒を使ったからだという。
恩師にここまで言われて、日本での成功は考えられない。
26歳になった藤田はフランスを目指すことになる。
そして、そこで観た絵は「まったく自由にして日本での西洋画風などごく
一部の様式に過ぎない」ものだった。
これは明かに黒田批判である。
日本の西洋画壇の大御所を見限った藤田は、パリで成功する以外に
生きる道はなかった。
転勤で熊本鎮台勤務となり、一緒に熊本に行き、熊本師範付属小学校に
入学する。
これは明治20年代前半のことであり、25年には日本は清国に宣戦布告を
しており、父は軍医として前線に行ったのか、家族は熊本から東京に戻って
いる。藤田は東京高等師範付属小学校に転入したようだ。
この明治25年は、日本の西洋美術史においても特筆する年になった。
黒田清輝(その時30歳)が京都・岡崎公園で開かれた第4回内国勧業博覧会
に出品した裸体画「朝妝」が物議をかもしたのだ。
黒田にとってこの絵は10年間の渡仏生活の総仕上げとして1993年
(明治26年)にパリで描き、サロンにも出品された自信作である。
博覧会の審議員を務めていた黒田は自分自身の絵を守りぬくことになる。
藤田が東京美術学校(1905年=明治38年)に入ると、西洋画科の主任教授が
この黒田清輝だった。
しかし藤田は黒田には認められなかった。
今回の藤田嗣治展の入口に展示された「自画肖像」は美術学校卒業制作の
1点だが、黒田は学生の前で悪い絵の例として解説したくらいだ。
藤田が影の部分に黒を使ったからだという。
恩師にここまで言われて、日本での成功は考えられない。
26歳になった藤田はフランスを目指すことになる。
そして、そこで観た絵は「まったく自由にして日本での西洋画風などごく
一部の様式に過ぎない」ものだった。
これは明かに黒田批判である。
日本の西洋画壇の大御所を見限った藤田は、パリで成功する以外に
生きる道はなかった。