岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

「自由とは、自分が正しいとすることではない」

2008-02-24 11:00:13 | 日本の仲間
これは阿部良男著『ヒットラーとは何者だったか?』に
引用されている『ブリュ-ニング回顧録』の言葉だ。
池内紀氏が毎日新聞の書評で引用しているので、
孫引きということになる。

昨日は、スティーブン・スピルバーグの『シンドラーのリスト』を
観ていた。本当に観るのがつらい映画だ。
そこで、本を読みながら観ることにした。
本は細川瑞子先生の『知的障害者の成年後見の原理』。

そして、私の頭の中は「自由」という課題がぐるぐると回ってきた。

「自由とは、自分が正しいとすることではない」とは
ワイマール共和国末期にドイツの宰相として共和制を擁護したブリュ-ニングが
ナチに自由を根絶やしにされることを予告したことばと言われる。
『シンドラーのリスト』の状況は、ドイツの大衆自らの熱狂=自由意志に
よるものだからこそ600万人の虐殺が可能だったということになる。

「自由とは、自分が正しいとすることではない」

『知的障害者の成年後見の原理』の111pより書き進めよう。
「仮定の上に成り立っている近代の自由とは、すでにフィクションなのである。
現代社会における自由とは『裸の王様』なのであろう。王様を恐れる民は誰も、
王様は裸である、といわない。現代社会の拠って立つ基盤である自由が
フィクションであることを人々はうすうす気がついている」

115P<懐疑論>から。
「どんな価値判断であれ、それを客観的に確証したり正当化したりする方法は
ない、ということがいかにもそれらしく見える点である」.
それは「いわば自由それ自体に価値を認める考えでもある」に繋がる。
この考えは、「「自由とは、自分が正しいとすることをする」考えと、
とても近い。

現代社会の流れは「自分が正しいとすることをすればよい」ではないか。
そこには、法律に抵触しない範囲でという条件さえクリアーすればという
留保がつくだけである。

実はこの「自由」はフィクションなのである。
このような「自由」を受け入れてはならないのだ。

「ナチズムがドイツ国民の世俗宗教の発展だった」という阿部良男氏の
言葉を私は納得するのだが、ナチズムの「自由」は、ドイツ国民の心の
なかにあった。
ということは、我々の「自由」の考えの中にも、得体のしれない「自由」が
ひそんでいることを肝に銘じなくてはならない。

「自由とは、自分が正しいとすることではない」

※写真はわが農村の夕闇

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