岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

社会福祉の源流を訪ねて(宿)

2008-04-11 11:06:32 | 社会福祉の源流
「社会福祉とはなんぞや」と問われ、なんと答えるか。
私は、「人々の生活を死からできるだけ遠ざけること」でいいと思っている。
この考え方では、戦争というのは、社会福祉と根本的に相容れないことになる。
まず、人の命を奪うな、ということ。そして人の命を救え、ということ。
どうして、簡単に人の命を奪うのかと思うことが多すぎる。

人々は、戦争を重ねる一方、戦争を避けることにも尽力した。
人間の歴史を見てみると、いつの時でも戦争をしているように見えるが、
しかし、生きている人々の感覚では、戦争は非日常であった。
日頃の生活は、生きていくこと、すなわち日々生活を維持することに
必死だった。

手元に、「日本の宿」宮本常一著がある。
この本は、題名の通り、日本の宿の起こりから昭和の宿までの通史である。
人々は太古の時代から、旅をしていた。
特に、中央集権国家が出現し、都への貢物を運ぶ。防人に行く。
寺院の建立に駆り出されるといやおうなしに旅をする必要があった。
また、税を払えず、逃亡する庶民も多かった。
このような旅人の多くは、旅の途中に行き倒れることとなった。
「宿」と「食料」の確保は至難なことだったのだ。

宮本常一氏は、各種資料や自分が歩いた日本全国の現場で見聞きしたことから、
死と隣り合わせの旅をより安全にする人々の試みを書きとめた。
「宿」をつくること。それが「社会福祉の源流のひとつだ」と書くと奇異に
感じられるかもしれない。
しかし、「宿」が人々の命を救ったことは確かだ。

書物に宿らしきものが登場するのは、奈良時代だという。
「奈良時代のもっとも偉大な伝道者」僧行基は、「布施屋」という宿を
近畿地方に少しながらも作ったことを記している。
もちろん、伽藍も造っているが、このような建物は夜露をしのぎ、周りに
果実が実る木々を植えることで、人々を救ったと思われる。
しかし、この「宿」を管理することは並大抵のことではない。
当然、荒れ果てることになった。

「しかしこのような厚意の芽生えはまたあとをつぐ者によって発展される
ものであった」というくだりを読んでほっとした。

・最澄   信濃神坂峠に広済院、広拯(じょう)院
・橘永範  救急院(私設:844年)
・大宰府  続命院(九国と対馬、壱岐の人々が逗留し延命するため)

仏教の力:古来、死者は穢れると、行き倒れになった死体が道端に
放置されていたが、仏教伝来(特に民間浸透)以降は、
「念仏を唱えられすればその魂は極楽へ往生するするものであると教えてから、
人間は死後の世界の恐ろしさと、美しさを区別して頭に描くことができるようになった」
「そして人の死後を美しからしめると考えられた僧侶たちは旅先でも
それほど苦労をしなくてすむようになった」という。

仏教と社会福祉の係わりは、現代(いやどこまでも)まで続いていく。
人を救うという考えは、人間が本来的に持っているものと思われるが、
それがひとつの形になるためには仏教者の力が大だったことがよくわかる。

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2 コメント

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お寺が持つ静けさ (bonn1979)
2008-04-11 17:06:27
明治のときに
仏教は受難した。
「廃仏毀釈」ということで
古くからのお寺が壊された。
ここ鹿児島はそれが最も徹底して行われた。
街を歩いて寺に会うことはない。
鉄筋のビルの本願寺が醜い姿をさらしている。
金沢には「寺町」があって静謐な空間でした。
もちろん、古都、奈良・京都の安らぎの多くは寺院の空間から来ているのではと思います。

最近の日本の精神の荒廃の淵源にこの問題(長い間の宗教を近代化の?名の元に壊してしまった)があるのでは・・とぼんやり考えていたので、今日の記事はその深いところを照らし始めていて、一読天を仰ぐ気持ちです。話の続きを待っています。
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廃仏毀釈 (岩清水)
2008-04-12 08:41:05
そうですか。
鹿児島には古い寺の建物はないのですか。
なんどか訪問しましたが、気が付きませんでした。奈良でも仏像が数多く道端に捨てられていたそうです。廃仏毀釈のすごさは今に伝えられていませんが、この権力者(明治政府)による横暴も知っておかなくてはなりませんね。チベット問題とも近いと思います。
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