11月25日放送分を観ました。
岡山の街はいまだ焼け跡のまま。
人びとはようやく立ち上がろうとしていました。
まだまだ戦地での状況はわからないままです。
人びとは無事戻って来てくれることを日々祈っていました。
私事ですが、父は召集されたまま。母は岡山で戦災にあい、義父は豪州に抑留、義母は台湾でした。
放送にあったように被災した百貨店「天満屋」は早い時期に営業を再開しています。
復興の中心的な役割を担います。
しかし、岡山の人々の中では「天満屋の地下に大勢の方が避難して亡くなった」という話が語られ続けてきました。
では実際はどうだったのか手元の資料を読み返してみました。
表ハカ町商店街の戦災の様子を聴き取りを交えて詳しく調査されています。
↓ 天満屋がある下之町(しものちょう)の空襲時の店舗構成です。黄色の丸が死者です。
人数は分かりません。
では空襲当時はどのように人々は逃げたのか、表3に代表の片山和良さんが書かれています。
以下の部分です。
天満屋の地下に避難するという計画があったが空襲直前に、天満屋の地下は安全ではないという認識が強くなったとあり、
多くの人が旭川方面に逃げたと書かれています。
※すでに大都市で空襲が続いており、その知見からコンクリート建築の地下に避難することはかえって危険であることが判っていたのでしょう。
実際に「旭川に逃げて川の中から城の焼け落ちるのを見た」という方の話も聞きました。
確かに地下で亡くなった人がいらっしゃいます。
しかし私がうわさで聞いていたより、かなり少なく20余名程度の方が避難されていたのではないでしょうか。
少し元気になった金太さん。息子の算太さんの帰還を夢見て、あろうことか亡くなってしまいました。
今週は「苦難の朝カム」です。
主題歌が悲しく聞こえます。
お読みいただきありがとうございました。
見出し画像は毎年開かれていた「戦災の記録と写真展」のパンプです。