岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

「裁判員の再記者会見」記事を読んで。

2009-08-09 06:44:12 | 社会福祉士
朝日新聞8月9日記事より:

61歳の男性裁判員の感想が掲載されていた。

「市民が刑を決める責任の重さは、判決から2日たっても、『頭から離れず、すっきりしない』という」

「判決を裁判長が言い渡す瞬間、法壇から被告をじっと見たという。『青ざめた印象の被告を
目のあたりにして、15年間の自由のない生活に入ると考えたときに、リアリティを感じた』

審理を通じて、刑事裁判に対する見方が変わったという。
『今までは犯人が憎い、厳罰も、と考えたが、必死に生きている中での不幸な結果が
事件になることもある』
被告の不幸な生い立ちや過去に犯した罪なども明らかにされた。
『酒を飲んで問題を起こしてしまう孤独な老人を、共同体の中でどう受け止めるのか』
という社会問題として考えを巡らせたという」

「量刑については、過去の類似事件より、検察側の求刑を被害者遺族の意見を参考にしたという。
議論する上での基準は
『今でもわかりません。弁護側が何年で妥当と思うかも、参考として知りたかった』

※この感想をお聞きして、もし私が裁判員で参加していたら同じように感じるだろうと思いました。
裁判員制度では、量刑まで裁判員が決めることになっていますが、なぜそのようになったのか。
この経過を知っておくべきだと思います。

想像するに、「有罪か無罪か」の判決だけに参加するのでは、膨大な手間暇をかけるに値しない。
量刑判断まで踏み込むべきだということになったのでは。
日本の場合、検察が立件した場合、ほぼ100%有罪になるので、有罪、無罪を問う裁判が
極端に限定されるという事情もあるでしょう。

しかし、量刑判断に踏み込んだ場合、過去の判例より、目の前の検察の求刑、遺族の意見こそが
重要と感じるのは、心理的に当然だと思います。

これが、素人的(=市民的?)反応でしょう。
しかし、よく考えてみれば、検察の求刑自体が過去の判例より導かれているわけで
この過去の判例は、裁判所の判決が減刑してくることを織り込み済ということになります。
すなわち、バランスをとっているわけですが、今回はこのバランスの一方のみを
はずしたということです。
そのはずした当事者にならざるをえない裁判員が、刑の重さを負担に思うのは当然でしょう。

裁判員が量刑まで決めるということには、まだまだ配慮が必要だと思います。

最後に、社会問題としても考える必要があるという意見(洞察)を深めるということがぜひとも必要です。
というのは、裁判員にとって、社会問題(社会的責任を含めて)をどのように量刑において
配慮されるべきかなど、判断ができないはずですから。

事件が複雑になればなるほど、判断が難しくなります。
手に負えなくなることでしょう。

現時点で明らかになったきた問題点(量刑について)の検討を至急進めるべきです。
全国で一斉に始まるようになれば、どこかの事件で大きな問題になるのではないかと考えます。

※写真は8月8日夕日その2。



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