21才大学生からの投稿抜粋です(12月9日付)。
「痴呆に代わる呼称が『認知症』になった。
私は賛成だ。大好きな祖母が私の名前を呼ばなく
なってから8年近くになる。いくら病気を表す言葉で
あっても、波乱万丈の人生を、明るく厳しく、時に
おちゃめに一生懸命生きてきた祖母にはまったく
似合わないと、ずっと違和感を感じてきた。<中略>
望んで病気にかかる人などいない。必死で今を生きる
患者がそれまで歩んできた人生をを見下されるような
表現は、改めて当然だと思う。」
家族の方の多くは、このように感じていらっしゃると
ことと思います。ここで一言付け加えさせていただ
ければ、もっとも傷ついているのは、患者さん本人で
あるということです。本人はわからないはずだ、という
見方はすでに否定されていますが、今だ「ボケたら
楽よ」という会話を聞きます。
このことはまた書くことになります。
でもそのことが「認知症がよい呼称だ」ということには
つながらない、ということも確かなことです。
「認知」という言葉はすでに、「認知行動学」、
「認知行動療法」という用語に使われており、いわゆる
『認知症』という病状とは関係ありません。
寡聞にして、関係者の方からの新聞投稿記事は拝見して
いません。ぜひ、投稿するなり、ミーティングの機会を
つくるなりして、啓発されることをお勧めします。
「痴呆に代わる呼称が『認知症』になった。
私は賛成だ。大好きな祖母が私の名前を呼ばなく
なってから8年近くになる。いくら病気を表す言葉で
あっても、波乱万丈の人生を、明るく厳しく、時に
おちゃめに一生懸命生きてきた祖母にはまったく
似合わないと、ずっと違和感を感じてきた。<中略>
望んで病気にかかる人などいない。必死で今を生きる
患者がそれまで歩んできた人生をを見下されるような
表現は、改めて当然だと思う。」
家族の方の多くは、このように感じていらっしゃると
ことと思います。ここで一言付け加えさせていただ
ければ、もっとも傷ついているのは、患者さん本人で
あるということです。本人はわからないはずだ、という
見方はすでに否定されていますが、今だ「ボケたら
楽よ」という会話を聞きます。
このことはまた書くことになります。
でもそのことが「認知症がよい呼称だ」ということには
つながらない、ということも確かなことです。
「認知」という言葉はすでに、「認知行動学」、
「認知行動療法」という用語に使われており、いわゆる
『認知症』という病状とは関係ありません。
寡聞にして、関係者の方からの新聞投稿記事は拝見して
いません。ぜひ、投稿するなり、ミーティングの機会を
つくるなりして、啓発されることをお勧めします。
ネットの世界もせまいのでしょうか。
このようなコメントをいただくとは
思ってもみませんでした。
私はあやさんの投稿を、そうだそうだ、
よく発言していただいたと、大変うれしく
思いました。
当事者でなければわからないことは多いと
思います。
その後、毎日新聞に認知症について投稿された
方もいらっしゃいました。
あなたの投稿は大変価値があるものです。
これからも自らの思いをどんどん発言される
と素晴らしいと思います。
今回は名称変更だけを重視してしまい、「認知症」の名前の由来など議論の経緯をきちんと把握しないままに投稿してしまいました。
そんな中でこのようにホームページなどで反応をいただくことは新鮮で、もっと自分が勉強しなくてはならないことを痛感します。
けれど、このように耳を傾けてくださる人の存在は嬉しいです。
ありがとうございました。