1895年(明治27年)3月29日、帰郷途上の船の中で作ったと
いわれる詩がある※。
帰国途上の所感
アゝ 美なるかな日向の地
予は実に爾を愛す
アゝ 壮なるかな太平洋
予は実に爾を愛す
南北四十里 東西二十里なる
日向の原野よ
爾は予等イスラエルのために
備えられたるカナンにあらずや
人間はその境遇によって
教育せらるるものとせば
爾高鍋よ 爾は予が
理想的人物を養成するに於いて
最も適当のところなり
アゝ 美なるかな尾鈴山
アゝ 壮なるかな太平洋
この年、茶臼原移住第2陣が出発しているが、この船便で児童も
移住したのかどうか。
十次は、年月を経るにつれて宮崎への思いが強くなる。
それは積年の課題を一挙に解決する場が郷里宮崎という思い
でもある。
確かに教育理念として、宮崎の地が理想的ということは理解
しやすい。ではなぜ岡山ではだめなのだろう。
京阪神との人的交流や情報量からいって岡山には利点は多い。
その利点を上回る、移住の利点があるはずである。
単に、十次の故郷への思いだけではない。
まず第1にあげられるのが、財政的要因である。
1905年(明治38年)の東北大凶作による児童救済は、多額の
寄付を集めたが足りたわけではない。やはり財政状況は悪化
してしまった。
借金は増えるが、一方、広大な土地、70棟余りの建物は資産と
して持つことになる。この資産が借金の担保になっている。
1907年の不足額 39000円
1908年の負債額 88000円
とある。不足額と負債額は同じ意味ではないだろうが、とにかく、
1908年時点で9万円の負債があったのである。現在の価値にして、
7億円余りになる。
この借金に目途を立てたの1910年であるが、それは、土地の売却
を基本としており、将来の返却計画も今後の事業の剰余金で
当てられることになった。
すなわち、岡山孤児院の土地の一部(男子部)は売却してしまった
ので、男子は宮崎に行くしかなかった。宮崎は岡山より児童一人
あたりの費用は半分以下という利点があったことも見逃せない。
財政面での優位ははっきりしてきた。
その他の優位はどうだったか。
十次は、教育の面でも絶えず悩んでいる。
就職した先(京阪神が多かったらしい)からは、十次の教育した
児童だからさぞ立派だろうと期待をかけられるが、そうはうまく
いかない。特に音楽隊などに参加しスポットライトを浴びた
児童は地道な仕事ができないという。
よくわかる話だ。就職先の期待を裏切れば、同情から差別への
転換は速い。
岡山の街でも、そのような傾向がみられたという。
宮崎では、開墾→農業→殖民という考えであり、いわゆる就職
活動は必要ないと思われたようだ。
こうして、十次の全面移住の決断はなされるのではあるが、
詳しい内部事情を知らない評議員からは、「岡山名物」のなく
なることを惜しみ反対が多かったという。
一人、大原孫三郎(3月5日号掲載)だけが、財政状況を知悉して
おり、賛成した。
1910年(明治43年)3月21日、評議員会は、男子部全面移住を
決定した。
※高鍋高等学校にこの詩の石碑がある。
この詩が書かれたのは、3女基和子が生まれた直後である。
希望に胸が高まってたのだろう。(2月21日号掲載)
いわれる詩がある※。
帰国途上の所感
アゝ 美なるかな日向の地
予は実に爾を愛す
アゝ 壮なるかな太平洋
予は実に爾を愛す
南北四十里 東西二十里なる
日向の原野よ
爾は予等イスラエルのために
備えられたるカナンにあらずや
人間はその境遇によって
教育せらるるものとせば
爾高鍋よ 爾は予が
理想的人物を養成するに於いて
最も適当のところなり
アゝ 美なるかな尾鈴山
アゝ 壮なるかな太平洋
この年、茶臼原移住第2陣が出発しているが、この船便で児童も
移住したのかどうか。
十次は、年月を経るにつれて宮崎への思いが強くなる。
それは積年の課題を一挙に解決する場が郷里宮崎という思い
でもある。
確かに教育理念として、宮崎の地が理想的ということは理解
しやすい。ではなぜ岡山ではだめなのだろう。
京阪神との人的交流や情報量からいって岡山には利点は多い。
その利点を上回る、移住の利点があるはずである。
単に、十次の故郷への思いだけではない。
まず第1にあげられるのが、財政的要因である。
1905年(明治38年)の東北大凶作による児童救済は、多額の
寄付を集めたが足りたわけではない。やはり財政状況は悪化
してしまった。
借金は増えるが、一方、広大な土地、70棟余りの建物は資産と
して持つことになる。この資産が借金の担保になっている。
1907年の不足額 39000円
1908年の負債額 88000円
とある。不足額と負債額は同じ意味ではないだろうが、とにかく、
1908年時点で9万円の負債があったのである。現在の価値にして、
7億円余りになる。
この借金に目途を立てたの1910年であるが、それは、土地の売却
を基本としており、将来の返却計画も今後の事業の剰余金で
当てられることになった。
すなわち、岡山孤児院の土地の一部(男子部)は売却してしまった
ので、男子は宮崎に行くしかなかった。宮崎は岡山より児童一人
あたりの費用は半分以下という利点があったことも見逃せない。
財政面での優位ははっきりしてきた。
その他の優位はどうだったか。
十次は、教育の面でも絶えず悩んでいる。
就職した先(京阪神が多かったらしい)からは、十次の教育した
児童だからさぞ立派だろうと期待をかけられるが、そうはうまく
いかない。特に音楽隊などに参加しスポットライトを浴びた
児童は地道な仕事ができないという。
よくわかる話だ。就職先の期待を裏切れば、同情から差別への
転換は速い。
岡山の街でも、そのような傾向がみられたという。
宮崎では、開墾→農業→殖民という考えであり、いわゆる就職
活動は必要ないと思われたようだ。
こうして、十次の全面移住の決断はなされるのではあるが、
詳しい内部事情を知らない評議員からは、「岡山名物」のなく
なることを惜しみ反対が多かったという。
一人、大原孫三郎(3月5日号掲載)だけが、財政状況を知悉して
おり、賛成した。
1910年(明治43年)3月21日、評議員会は、男子部全面移住を
決定した。
※高鍋高等学校にこの詩の石碑がある。
この詩が書かれたのは、3女基和子が生まれた直後である。
希望に胸が高まってたのだろう。(2月21日号掲載)