十次は、宮崎茶臼原全面移住に伴い、ほとんど全ての建物を
移転する。
岡山にあっても意味のない建物だし、土地は売却済みである。
解体して船に載せた。宮崎高鍋の港から荷馬車で運んだ。
瓦も礎石も運んだという。日本家屋の場合、解体移転の技術が
発達しており、大昔からお寺や城など大建築でもよく行われた。
構造上、柱と木材、瓦、礎石に解体すれば、移転先で比較的簡単に
建てることができる。このことは十次は熟知しており、
皆を驚かせたという。
特に、礎石に使った花崗岩は岡山特産の優れたもので、
有名な建築物では東京明治神宮の絵画館はすべてこの花崗岩を
使用している。
宮崎にはない見事な石なのである。
瓦も同様だった。岡山は備前焼に代表されるように、焼き物の
適した土があり、瓦も上質なものができる。
今でも倉敷の大原邸の瓦や、藩校であった閑谷学校の瓦を
見ればその美しさに瞠目するはずである。
また、家庭舎自体は十次が理想の住宅を追求して完成した
ものある。置いて行くわけにはいかないのだ。
当時、藁葺きの農家が中心であった宮崎の地で、突然、瓦屋根の
白壁の家庭舎が立ち並ぶさまは、例えれば、山奥の高原に瀟洒な
別荘村が生まれるごとくであり、そこに長年住んでいる人々に
とっては、面白くない印象を与えたようだ。
建物の総数は52棟。事務所、学校、住宅、公会堂、家庭舎から
なっていた。公会堂は日曜学校、日曜礼拝に使用していた。
1912年(大正元年)には、皇室よりの御下賜金で建築された
恩寵館も落成している。
茶臼原孤児院は、100ヘクタールを超える広大な土地に囲まれている。
すべて孤児院の土地である。移住した児童と職員による開墾が
始まる。
1911年(明治44年)年末から大掛かりな開墾に取り組み、
翌年の紀元節(今の建国記念日)には、20ヘクタールを開墾した。
3月には桑苗19万本の接方を終了している。
5月には新田開拓に着手、7月までに3ヘクタールが新田に
生まれ変わった。
6月には溜池を完成して鯉1000尾を放った。
この半年余りは、学校を休んでの労働だった。
自活のための土台づくりは着々と進んでいた。
この間は、岡山より最後の移住者が到着。400人規模となる。
岡山には里預けに出している児童が、89名残るのみとなった。
十次の活動は、院内にのみに留まっているはずはなかった。
すでに宮崎高鍋の名士となっていた十次にはいろいろな
頼みごとが舞い込む。
はるか昔、逃げるように郷里から岡山に旅だった時に日誌に
書いた言葉が思い出される。
「立志医学を修め、帰郷医術を施し、
上江村の人民のためと己自立のためにせんと欲す」
1911年(明治44年)高鍋製糸会社の社長を引きうける。
上江信用金庫組合創立に尽力する。
1912年(大正元年)宮崎県の依頼で長野や山梨の養蚕・製糸業者の
視察をした。この地域のための働くことは、孤児院自活のために
役立つと信じていた。
院内に桑畑を作って、1913年(大正2年)には座繰製糸も開始した。
1913年(大正2年)にはなんと榎木田炭坑試掘に着手している。
やはり、十次は「小天国」を目指していたのだ。
移転する。
岡山にあっても意味のない建物だし、土地は売却済みである。
解体して船に載せた。宮崎高鍋の港から荷馬車で運んだ。
瓦も礎石も運んだという。日本家屋の場合、解体移転の技術が
発達しており、大昔からお寺や城など大建築でもよく行われた。
構造上、柱と木材、瓦、礎石に解体すれば、移転先で比較的簡単に
建てることができる。このことは十次は熟知しており、
皆を驚かせたという。
特に、礎石に使った花崗岩は岡山特産の優れたもので、
有名な建築物では東京明治神宮の絵画館はすべてこの花崗岩を
使用している。
宮崎にはない見事な石なのである。
瓦も同様だった。岡山は備前焼に代表されるように、焼き物の
適した土があり、瓦も上質なものができる。
今でも倉敷の大原邸の瓦や、藩校であった閑谷学校の瓦を
見ればその美しさに瞠目するはずである。
また、家庭舎自体は十次が理想の住宅を追求して完成した
ものある。置いて行くわけにはいかないのだ。
当時、藁葺きの農家が中心であった宮崎の地で、突然、瓦屋根の
白壁の家庭舎が立ち並ぶさまは、例えれば、山奥の高原に瀟洒な
別荘村が生まれるごとくであり、そこに長年住んでいる人々に
とっては、面白くない印象を与えたようだ。
建物の総数は52棟。事務所、学校、住宅、公会堂、家庭舎から
なっていた。公会堂は日曜学校、日曜礼拝に使用していた。
1912年(大正元年)には、皇室よりの御下賜金で建築された
恩寵館も落成している。
茶臼原孤児院は、100ヘクタールを超える広大な土地に囲まれている。
すべて孤児院の土地である。移住した児童と職員による開墾が
始まる。
1911年(明治44年)年末から大掛かりな開墾に取り組み、
翌年の紀元節(今の建国記念日)には、20ヘクタールを開墾した。
3月には桑苗19万本の接方を終了している。
5月には新田開拓に着手、7月までに3ヘクタールが新田に
生まれ変わった。
6月には溜池を完成して鯉1000尾を放った。
この半年余りは、学校を休んでの労働だった。
自活のための土台づくりは着々と進んでいた。
この間は、岡山より最後の移住者が到着。400人規模となる。
岡山には里預けに出している児童が、89名残るのみとなった。
十次の活動は、院内にのみに留まっているはずはなかった。
すでに宮崎高鍋の名士となっていた十次にはいろいろな
頼みごとが舞い込む。
はるか昔、逃げるように郷里から岡山に旅だった時に日誌に
書いた言葉が思い出される。
「立志医学を修め、帰郷医術を施し、
上江村の人民のためと己自立のためにせんと欲す」
1911年(明治44年)高鍋製糸会社の社長を引きうける。
上江信用金庫組合創立に尽力する。
1912年(大正元年)宮崎県の依頼で長野や山梨の養蚕・製糸業者の
視察をした。この地域のための働くことは、孤児院自活のために
役立つと信じていた。
院内に桑畑を作って、1913年(大正2年)には座繰製糸も開始した。
1913年(大正2年)にはなんと榎木田炭坑試掘に着手している。
やはり、十次は「小天国」を目指していたのだ。