その後も、郷里と繋がりは続くが、大きな動きがあったのは、
1887年(明治20年)に茶臼原の原野(今の西都市と木城町)
を購入したことである。
茶臼原は十次の生家から7~8km西に行ったところにある。
孤児教育の理想郷をここに見たのだろう。広大な未開の台地が
広がっていた。資金は岡山の有志による協力金110円だった
らしい。60ヘクタールの土地を確保した。
1894年(明治27年)、ルソーの「エミール」の訳読を聞き
始めると同時に、院生25名余りを茶臼原に移しその開拓に
着手する。
鍛冶部、製本部、大工部を設ける。
不就労児童救済会を設立する。
「エミール」は児童教育の古典といわれる書物で、長年教師と
して教育に携わってきた著者の深い考察と独自の教育論が
書かれている。都会から離れて、田舎で野菜を多くとった
食事を中心に、健全な生活を送り、素朴に子育てしようと
説いている。
十次は227日間に渡って訳読を聴き、思いを強くした。
1895年(明治28年)茶臼原に第2陣を送る。
この年は、コレラ罹患、妻品子の死と「火のバブテスマ」と
いわれる厳しい年だった。
1896年(明治29年)高鍋町に日州活版所をつくる。
1897年(明治30年)日向銀行設立の発起人となる。
高鍋に肥料購入会、高鍋の萩原に孤児院精米所を設ける。
また、移住の第4陣が「第2孤児院丸」で岡山を立った。
ところが、船旅は厳しく、2週間を要して、宮崎に着いた時は
衛生状態も悪化し、24名の隔離、そして5名の児童を失うに
いたった。再びの悲劇だった。
この時、十次は高鍋の人々への謝罪とお礼の意味をかねて、
発足したばかりの音楽隊を宮崎まで呼び寄せてる。
この音楽隊を中心に行った「日向巡業」は思わぬ評判を呼び、
8ヵ所で開催された。
十次の岡山孤児院の説明にも力が入り、1会場では2千人も
入ったという。
さながら凱旋巡業のようではなかったか。十次の活躍が故郷で
一気に知れ渡ったことだろう。人々も宮崎を代表する人物と
評価を定め、以後の十次の宮崎での活動は随分とスムーズに
なる。
このように年譜風に書いてくると、十次は宮崎だけでも十分
すぎる活躍である。しかし宮崎での彼の活動は、彼の一部で
しかない。こうして見ていると何人もの十次が同時並行的に
行動しているような錯覚に襲われてしまう。
1900年(明治33年)、茶臼原の事業中止、日州活版部および
高鍋精米部を中止している。
{なぜか」。よく理解できていないが十次が非常に多忙になり、
とても手が回らなくなったのではないか。
数年間の休止が続くことになる。
感激型の十次は、決断が速い。熱しやすいのは確かだが冷め
やすいのか。
休止の決断も速いが、その事案を諦めはしない。心の奥で
マグマがうごめき、2度も3度も噴火するのである。
名前の通り、生涯「十次噴火(10回再生!)」くらいした
のではないか。
1905年(明治38年〉1月1日、5年間に渡る休止から、
茶臼原の事業を復興する。
その年、東北大凶作が起こる。無制限収容を打ち出していた
十次は、ふたたび、茶臼原移住にかかる。十次にはこのような
ことがよく起る。
この時も夢による神の啓示があったのだろうか。
1887年(明治20年)に茶臼原の原野(今の西都市と木城町)
を購入したことである。
茶臼原は十次の生家から7~8km西に行ったところにある。
孤児教育の理想郷をここに見たのだろう。広大な未開の台地が
広がっていた。資金は岡山の有志による協力金110円だった
らしい。60ヘクタールの土地を確保した。
1894年(明治27年)、ルソーの「エミール」の訳読を聞き
始めると同時に、院生25名余りを茶臼原に移しその開拓に
着手する。
鍛冶部、製本部、大工部を設ける。
不就労児童救済会を設立する。
「エミール」は児童教育の古典といわれる書物で、長年教師と
して教育に携わってきた著者の深い考察と独自の教育論が
書かれている。都会から離れて、田舎で野菜を多くとった
食事を中心に、健全な生活を送り、素朴に子育てしようと
説いている。
十次は227日間に渡って訳読を聴き、思いを強くした。
1895年(明治28年)茶臼原に第2陣を送る。
この年は、コレラ罹患、妻品子の死と「火のバブテスマ」と
いわれる厳しい年だった。
1896年(明治29年)高鍋町に日州活版所をつくる。
1897年(明治30年)日向銀行設立の発起人となる。
高鍋に肥料購入会、高鍋の萩原に孤児院精米所を設ける。
また、移住の第4陣が「第2孤児院丸」で岡山を立った。
ところが、船旅は厳しく、2週間を要して、宮崎に着いた時は
衛生状態も悪化し、24名の隔離、そして5名の児童を失うに
いたった。再びの悲劇だった。
この時、十次は高鍋の人々への謝罪とお礼の意味をかねて、
発足したばかりの音楽隊を宮崎まで呼び寄せてる。
この音楽隊を中心に行った「日向巡業」は思わぬ評判を呼び、
8ヵ所で開催された。
十次の岡山孤児院の説明にも力が入り、1会場では2千人も
入ったという。
さながら凱旋巡業のようではなかったか。十次の活躍が故郷で
一気に知れ渡ったことだろう。人々も宮崎を代表する人物と
評価を定め、以後の十次の宮崎での活動は随分とスムーズに
なる。
このように年譜風に書いてくると、十次は宮崎だけでも十分
すぎる活躍である。しかし宮崎での彼の活動は、彼の一部で
しかない。こうして見ていると何人もの十次が同時並行的に
行動しているような錯覚に襲われてしまう。
1900年(明治33年)、茶臼原の事業中止、日州活版部および
高鍋精米部を中止している。
{なぜか」。よく理解できていないが十次が非常に多忙になり、
とても手が回らなくなったのではないか。
数年間の休止が続くことになる。
感激型の十次は、決断が速い。熱しやすいのは確かだが冷め
やすいのか。
休止の決断も速いが、その事案を諦めはしない。心の奥で
マグマがうごめき、2度も3度も噴火するのである。
名前の通り、生涯「十次噴火(10回再生!)」くらいした
のではないか。
1905年(明治38年〉1月1日、5年間に渡る休止から、
茶臼原の事業を復興する。
その年、東北大凶作が起こる。無制限収容を打ち出していた
十次は、ふたたび、茶臼原移住にかかる。十次にはこのような
ことがよく起る。
この時も夢による神の啓示があったのだろうか。