岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

愛生園の園長室

2008-06-28 11:30:15 | ハンセン病
歴史館の応接室に続いて旧園長室がある。20畳くらいはありそうだ。
大きな机があり、壁には歴代の園長の写真が掲示されている。

この事務本館に入所者が立ち入ることは厳しく制限されていた。
いわば聖域だった。
園長といえば、保育園や幼稚園の園長を連想してしまうが、
実態は想像を絶した(歴史館のどこにも書かれてはいないが)。

その権限というのは、「専制君主」といっていい。
行政権、警察権、司法権を一手に握っている。
そして、懲戒検束権さえも。
隔離された療養所の中にさらに、隔離された「収容室」がある。

そして、誰をどの程度の期間、収容するかは、園長の権限だった。
根拠をしめす必要もなかった。
このような権力の獲得に光田園長の果たした役割は大きい。

82歳で光田園長が退任し、その後、愛生園を再訪した折に二つのことを
謝罪した。
ひとつは「家族の了解がないのに死亡解剖したこと」
もうひとつは「優性手術を無法下で実施したこと」

このことがどのようなことを意味するかは、もっと学習する必要がある。
光田は医師である。死亡解剖に立ち会った数は、数千例といわれる。
優性手術とは断種術のこと。輸精管や卵管の結さつをする。
1949年から69年までに約1500件、人工中絶数が約2700件。
これは戦後の話である。


実は、高校時代に教師から聞いた話に
その人工中絶の強制をおもわせる話があった。
ブログでは控えようと思うが。
とにかく今はどこにもその形跡はない。

療養所で隔離されていたのは、入所者だけではない。
医師も、世界の医療から隔絶していた。
隔絶した専門家集団が、厚生省とともに戦後も、隔離政策を継続していった。
なぜ、このようなことがまかり通ったか。
学んでいかなくてならない。

参考資料:『ハンセン病ー排除・差別・隔離の歴史』
 沖浦和光 徳永進編 岩波書店 2001年

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3 コメント

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偏ったモノです (peaceful)
2009-05-28 07:18:26
ハンセン病の本は日本人が書いたものだったら、95年以前の本を読まないと実態はわかりません。ワゼクトミーというのは、説明をして
希望者に施していた手術です。大体、子供が生まれたらその養育費はどうしますか?泣き声や
汚物、臭気が他患者も迷惑するし、妊婦患者は症状が確実に進みます。幼児は感染しやすいし
臍帯通して新生児でもう感染していた例も国内でありました。不良患者の事も!療養所で強姦や殺人があっていた事もあったんですよ。それで園長に懲戒権が必要になり、こらしめの為に監房が作られ始めたのです。看護婦や女子患者
のレイプもあってました。昭和20年代の新聞を読んで下さい。凄い事件が載ってますから。
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USA事情 (peaceful)
2009-05-28 07:25:46
アメリカでは少なくとも30年代迄ハンセン病患者はNYから追放されていました。あの国は
属国だったフィリピンに世界一のこの病気の
国立病院を建てて、USA本国の患者もどしどし送りこんでいました。職員と患者は完全に隔てられ、通行証が必要でした。結婚は認められていませんでしたが、その内認められるようになったものの、子供は矢張り歓迎されてませんでした。この療養所内の通貨は、このでしか使えないものを流通させていましたよ。
(頻繁に消毒していました)
★プロミンって薬、まるで効かなかった患者も
かなりいました。副作用で手足のマヒや失明も
ありました。
日本では、昭和30年代になると患者は療養所を出られたし、新たに発病してももう国立療養所に入らずともよかったんですよ。昭和30年で退所者は2000人はいましたね。
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コメントの意味。 (岩清水)
2009-05-28 22:11:57
peacefulさんは何を主張されているのですか。

私は、今、「長島は語る・岡山県ハンセン病関係資料集・後編」を読んでいます。
あとがきに、南智さん(岡山県ハンセン病問題関連史料調査委員会委員長)が書いている文章
「こうした資料の収集・編集を進めていく過程で、調査専門専員の念頭から離れなかったのは、『ハンセン病問題が私たちに問いかけているのは何か』ということであり、とくに、隔離政策による明白な人権侵害がなぜ百年近く続いてきたのかということでありました」。


南智さんの問題意識は私自身の問題意識に繋がります。
ハンセン病を学ぶ意味は、自分自身への問いかけです。
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