岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

レクイエム・コンサートを聞きにカソリック教会を訪れる。

2008-07-01 11:33:05 | 社会福祉の源流
6月29日に岡山カソリック教会でレクイエムコンサートが開催された。
私はプロテスタントの教会に行く機会は多いのだが、カソリックの教会には
観光目的以外では初めてではないだろうか。思い出せない。
この岡山カソリック教会は、市内の中心地区にあり、
63年前のこの日の未明に受けた米軍B29による大空襲で教会の前面のみを
残して焼失してしまった。
今は、現代建築の教会に生まれ変わっているが。

カソリック教会の聖堂に入って新鮮に感じることは、キリストやマリア像が
祭壇に飾られていること。
プロテスタントには十字架しかない。
また、柱の数が12使徒に因んで12柱であり、
天井からつるされたキャンドルの数が、26個というのも、
戦国時代の長崎の西坂で殉教した26人のキリシタンに因んでいる。

これは、キリストをその象徴とする殉教者列伝こそカソリックの
精神的支柱(大黒柱)といえるのだろう。
私が興味を持っていることに戦国時代のキリシタンによる社会福祉(救済)が
あるが、これはプロテスタントや聖公会(英国国教会)では無理なこと。
このようなことも今回、目のあたりにして、そしてやっとわかった。
戦国時代に日本に来た宣教師はイエズス会や聖フランシスコ会に所属していた。
出発地はリスボン(スペイン)などとなる。

イエズス会や聖フランシスコ会の宣教師の行動は、
「片手に武器、片手に聖書」という文化的侵略の先鋒ではなかった。
イエズス会のローマ教会の戦闘的改革派といわれていたのは教科書にも
載っている。
宣教方針は以下の通り。
「イエズス会は十字の旗を高く掲げた。従来の修道会の伝道のやり方を革新し、
貧民や孤児の救済、病人の治療などの福祉活動。教育とは縁のなかった下層社会で
の学校の設立など布教活動と社会的ボランティア活動とかと一体になった」※

確かに、日本を訪れた宣教師は「両手に聖書」だった。武器はない。
そして、有力大名への布教とともに、下層民に対する救済や布教も重視された。
布教の最前線で活躍した布教師には「琵琶法師のロレンソ了西、盲人ダミアン
遊芸民のトビアス、針売り行商人のマチウス」※など下層民が含まれている。
また、日本で初めての救らい病院を設立したのはイエズス会のルイス・アルメイダ
と言われている。

ザビエルが鹿児島に上陸したのは1549年。
過酷な弾圧で壊滅状態になったのは1620年。
この70年間で信者は数十万人(当時日本の人口は約2000万人)に達し、
殉教者も数万人と言われる。
多くの宣教師も殉教している。
聖フランシスコ会は「70名来日、30名殉教」※。
彼らが最後に潜伏した先は下層民の小屋の中だったといわれる。
この時代に宣教師によってもたらされた教育、病院、救済活動は
すべて無に帰したことになるが、もし継続されていたならと思うのは
詮無きことだろうか。

レクイエムコンサートが始まらない(私の寄り道で)。次回は書きます。

※『ハンセン病ー排除・差別・隔離の歴史』
 沖浦和光 徳永進編 岩波書店 2001年

最新の画像もっと見る