岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

【安らかに】品子、天に召される   石井十次その十二

2005-02-21 07:14:15 | 石井十次
1895年(明治28)3月、満天を被う星が流れていった。※1

十次、品子夫婦は相次いで三十路に入った。
疾風怒濤の20代は過ぎ去ったが、新たな試練が
ふたりを襲うことになる。
この年、品子は3月に三女 基和子を出産する。次はぜひ
男子を、と期待されたかもしれない。
しかし、この時すでに品子は結核におかされていた。
結核は当時不治の病といわれ、恐ろしい病気だった。

この病に品子は床に臥したままになったが、不幸なことは
続く。コレラが大流行し、岡山県を襲った。県下の死者は
2千余人に上った。だが「日本全史」をみても、このコレラの
ことは記事になっていない。この当時はよくあることだった
のか、信じられない思いである。
この伝染病は、あろうことか岡山孤児院にまで迫り、ついに
十次が感染することになってしまったのだ。

現在、感染症法2類に属するコレラは、明治期死亡率は極めて
高く、この年の流行では、罹患者の59%が死亡している。

十次は近くの隔離施設である網の浜の避病院に収容された。
「時に昏睡さえ迎えて、危険な状態にも陥ったが、医学校
時代の同窓生らの懸命の治療を受けながら、まさに九死に
一生を得た」という。※2

十次の退院をだれより喜んだ品子だった。
しかし、神は十次の命を地上に戻した代わりに、品子を呼び
戻してしまうのだ。
品子は自らの命と引き換えに十次を生きかえらせたのかも
しれない。

2週間後、品子は帰らぬ人になってしまった。
3人の幼い子どもが十次に残された。

1895年(明治28)9月12日、享年30歳。

岡山孤児院は「大柱」を失った。
十次の悲しみはいかばかりであっただろうか。





※1 愛媛県下には71kgの隕石が落ちた(前出:日本全史)
※2「岡山孤児院物語」石井十次の足跡 山陽新聞社刊

☆品子については、その人となりをできるだけ、調べることで
明治期の女性の精神と生き方を知ることができると思います。
また、十次の回りには素晴らしい女性が多く集っており、
その女性のネットワークを掘り起こすことも、有意義だと
思っています。

最新の画像もっと見る