「働くこととは」について考えることは、
「働かないこととは」を考えることと表裏である。
「働くことができる人」が「働かない」ことに対する批判は多い。
「勤労」は国民の義務だというから、義務を果たしていないと
批判することになるのだろう。
では、若くして財産を作り、リタイヤする人は非難されるの
だろうか。所得税や、消費税を払っているから、それは個人の
自由ということか。
では、「働く」ことは働くけれど、9時間も働きたくない、
5時間で十分という人は、もっと働くべきだというのだろうか。
5時間労働になれば、国が立ち行かなくなるということだろうか。
「働く」けれど、無収入のひとは、「働く」とはいわない
のだろうか。
ボランティアの人は「働く」とは普通いわない。
ボランティアをするという。しかしこれは無償ながら、
「有償のボランティア」と同じ仕事をしていることも多い。
無収入でも働くといっていいと思う。
「働く」イコール「所得を得る」と考えては例外が
多すぎるのだ。
この辺りを少し深く考えると、実は「働く」ということは、
本当に奥が深いのだ。
そして、あまり掘り下げられていない。
この辺りはぼかしたままでいいと考えている人も多い。
「市場個人主義」を進めている「力」はそのように考えている。
では「働くこと」と「所得」の関係はどうだろうか。
「社長の給料」は、大企業に関していえば、対社員比は、
以前より大幅に拡大している。
有名人が超高所得者になったのは、みんな知っている。
かって、1億円プレーヤーで驚いたのに、今やイチローも
10億円だ。
おまけに所得税の累進課税の上限は38%だ。
(イチローの納税国は知らないけれど)。
100億円を一人で稼ぐ「働く人」(労働者とはとてもよべない)
もいる。その人は、62億円は手に入る。もっとも節税している
人もいるから特別ではないのかもしれない。
これは、富の偏在といってもよいだろう。
これが市場個人主義といわれものである。
市場は正しい。市場が個人にそれだけの価値を認めるのだから
それでいいのだというわけだ。
市場主義経済が進むにしたがい、このように富が偏在するのは
認められるべきということか。
あなたにも、「ジャパンドリーム」はある。
それに向って頑張りなさいということだ。
だれでも可能性があるというのだ。本当か。
話を元に戻そう。
「働かないこととは」である。
「働かないこととは」とは、理由はともあれ「働く」ことを
否定している。
「働く」ことを否定するとどうなるか。
生活できないということに直面することがある。
しかし、資産さえあれば、そのようなことにはならない。
また、年金という手段もある。
しかし、「働いていない」というこのと何かしらの「負い目」を、
ほとんどの無業の人は感じていると思う。
そのことが社会的な活動を支えているケースも多い。
「負い目」もエネルギーになるのだ。そのあたりも、だれかに
利用されている。
「働いていない」という「負い目」を利用することは多い。
このことは、働いていれば一人前であるという、ある種の差別
意識を助長している。
「働けない(かない)」ということは、差別の対象にさえなる。
「働けない(かない)」ということで「差別」された人は、
「働く」ことをえることで、「働けない(かない)」人を
差別している。
人は絶えず、自分の心を疑わなければならない。
自らは正しいと思った時点から、瞬時に奈落に向って
転がり始めるようだ。
もちろん、奈落が何かはわからないまま。
「働かないこととは」を考えることと表裏である。
「働くことができる人」が「働かない」ことに対する批判は多い。
「勤労」は国民の義務だというから、義務を果たしていないと
批判することになるのだろう。
では、若くして財産を作り、リタイヤする人は非難されるの
だろうか。所得税や、消費税を払っているから、それは個人の
自由ということか。
では、「働く」ことは働くけれど、9時間も働きたくない、
5時間で十分という人は、もっと働くべきだというのだろうか。
5時間労働になれば、国が立ち行かなくなるということだろうか。
「働く」けれど、無収入のひとは、「働く」とはいわない
のだろうか。
ボランティアの人は「働く」とは普通いわない。
ボランティアをするという。しかしこれは無償ながら、
「有償のボランティア」と同じ仕事をしていることも多い。
無収入でも働くといっていいと思う。
「働く」イコール「所得を得る」と考えては例外が
多すぎるのだ。
この辺りを少し深く考えると、実は「働く」ということは、
本当に奥が深いのだ。
そして、あまり掘り下げられていない。
この辺りはぼかしたままでいいと考えている人も多い。
「市場個人主義」を進めている「力」はそのように考えている。
では「働くこと」と「所得」の関係はどうだろうか。
「社長の給料」は、大企業に関していえば、対社員比は、
以前より大幅に拡大している。
有名人が超高所得者になったのは、みんな知っている。
かって、1億円プレーヤーで驚いたのに、今やイチローも
10億円だ。
おまけに所得税の累進課税の上限は38%だ。
(イチローの納税国は知らないけれど)。
100億円を一人で稼ぐ「働く人」(労働者とはとてもよべない)
もいる。その人は、62億円は手に入る。もっとも節税している
人もいるから特別ではないのかもしれない。
これは、富の偏在といってもよいだろう。
これが市場個人主義といわれものである。
市場は正しい。市場が個人にそれだけの価値を認めるのだから
それでいいのだというわけだ。
市場主義経済が進むにしたがい、このように富が偏在するのは
認められるべきということか。
あなたにも、「ジャパンドリーム」はある。
それに向って頑張りなさいということだ。
だれでも可能性があるというのだ。本当か。
話を元に戻そう。
「働かないこととは」である。
「働かないこととは」とは、理由はともあれ「働く」ことを
否定している。
「働く」ことを否定するとどうなるか。
生活できないということに直面することがある。
しかし、資産さえあれば、そのようなことにはならない。
また、年金という手段もある。
しかし、「働いていない」というこのと何かしらの「負い目」を、
ほとんどの無業の人は感じていると思う。
そのことが社会的な活動を支えているケースも多い。
「負い目」もエネルギーになるのだ。そのあたりも、だれかに
利用されている。
「働いていない」という「負い目」を利用することは多い。
このことは、働いていれば一人前であるという、ある種の差別
意識を助長している。
「働けない(かない)」ということは、差別の対象にさえなる。
「働けない(かない)」ということで「差別」された人は、
「働く」ことをえることで、「働けない(かない)」人を
差別している。
人は絶えず、自分の心を疑わなければならない。
自らは正しいと思った時点から、瞬時に奈落に向って
転がり始めるようだ。
もちろん、奈落が何かはわからないまま。