実は北澤少年は、「ほんやら洞」で中学生ながらアルバイトをしていたのですね。
出町といえば京阪電車の終着駅(出町柳駅)です。
西にある御所に面して同志社大学、東に向かえば京都大学と学生が多く住む街です。
文化的な蓄積も多く、学術的にもヤングカルチャーでも発信地になっていたのです。
(最後にwikiの記事を転載していますのでお読みください)
現在、シニアになっている人々には伝説的な人々が登場します。
北澤少年(1961年生まれ)にとっては一回り以上のお兄さん、お姉さんが中心です。
そのなかで、突っ張って暮らしていたのでしょう。
父親は「思想の科学」の編集人です。
少年は小学校の時から「思想の科学」に投稿をしていたといいます。
すでに一目置かれていたのでしょう。
中学校時代の旅では北海道に5回も旅行し雪の中から蒸気機関車を撮影しています。
素晴らしい写真です。
使っていたカメラはヤシカの一眼レフ、続いてペンタックスSPです。
大人が使っていたカメラです。
最初は蒸気機関車中心でした。見開きページを紹介させていただきます。
そのような少年期のものの見方を「ソリプシズム」というそうです。
彼はこのことを鶴見俊輔氏から直接聞いたそうです。
彼の死後、黒川創は2018年に『鶴見俊輔伝』(未読)を書いています。
生涯の師匠とあがめていたのでしょうか。
北澤少年は、大変注目されていたのがわかります
(中学の教師にとっては扱いの難しい生徒だった、理屈では太刀打ちできなかった)。
少年が急ぎ足で成長していくと、関心が物から人や民俗的なものに移っていきます。
↓ 表紙裏です。
ほんやら堂のついてのwikiの記述を転載させていただきます。
京都・出町の「ほんやら洞」
伝説の喫茶店
京都市の出町(上京区今出川通寺町西入ル、最終経営者は甲斐扶佐義)の「ほんやら洞」は、休業中だった喫茶店を買取って、1972年(昭和47年)春、シンガーソングライターの岡林信康ら[4]ミュージシャン、文化人、市民たちの募金と労務提供[3][5]によって開店された。
この店では、詩人たちが自作の詩の朗読を行い、その録音がレコードや書籍となったことやシンガーソングライターの岡林信康、中川五郎、浅川マキらのライブが行われ、吉田拓郎や下田逸郎が顔を見せた[6]こと、当時よく読まれていた音楽雑誌に同店のスタッフであった古川豪や早川正洋の日記が連載された[7][8]ことなどによって、来店経験がなくても、店の名前や存在を知る人も少なくない。
文化の発信拠点として
この店には、ライブラリー兼会議室として設けられた2階スペースがあり、開店以来、文化人らのミーティング、美術家たちの個展、シンガーソングライターの岡林信康、中川五郎、浅川マキらのライブなどに利用されてきた。
『ほんやら洞の詩人たち』出版
この2階スペースには、1970年代、ボブ・ディラン楽曲の訳詞者である中山容、片桐ユズル、秋山基夫、有馬敲らオーラル派と呼ばれる詩人たちが集まり、しばしば自作詩の朗読を行った。そのなかから『ほんやら洞の詩人たち』[9]という朗読レコードが1975年(昭和50年)に制作され、1979年(昭和54年)には同名の本が生まれた。
1970年代の京都の新名所
同店は、1970年代の京都の新名所のひとつとなり、中山ラビ[10]や女優の鮎川いずみらも客として顔を見せた[11]。
同店は、当時すでに下火となりつつあった学生運動、関西フォークに関わる学生・若者らにとっての名所[12][13][14]となり、様々な文献にその名前が残され、語り草となっている。
火災により全焼・閉店
2015年1月16日、同店より出火し建物を全焼した[15]。甲斐によれば火災の原因は不明で、店舗備品のほか、甲斐扶佐義の40数年分にわたる写真作品のネガフィルム200万コマとプリント、著書やポストカードなどの在庫、43年分の日記や出版に向けて書いていた草稿などもあわせて焼失した[16]。このため同年1月21日をもって閉店となった[16]。
お読みいただきありがとうございました。